枕草子 (My Favorite Things)

【第64回】 幻想此世界(1998年9月18日;2000年3月24日追記)

昨日は,ネットサイエンス・インタビューメールの森山和道さんからインタビューを受けた。ぼくの考える人類生態学について説明したのだが,これまでの金子邦彦さんとか木下一彦さんとか田口善弘さんとかの話の面白さに比べると,面白い話ができたかどうかは疑問である。つまり,学問としては面白いのだが,ぼくが話し下手なので(教育で食っている身としてはまずいよなぁ)うまく伝わらなかったのではないかという懸念があるということである。起こした原稿に文章を追加してもいいということだったので,そうさせてもらおうと思っている。森山さんはいろいろな人に会ってきているので,世界が広く,話すのは面白かった。インタビューの後で,最近の小説についてもいろいろ話したが,瀬名秀明さんには頑張ってたくさん書いて欲しいという点では見解が一致した。そう,きっと瀬名さんはたくさん書けばこれまでの欠点は克服できる筈なのだ。

ところで,今日は,数日前に自己認識と差別化で書いたことについて,ある知人とのメールでの議論を通じて感じたことを書きたい。ぼくは,分集団がないとすれば世の中の不幸は大部分なくなると書いたが,実はそうなった場合,文化もなくなってしまうのだ。分集団がある(と思う)ことは,個人の多様性では生み出せない強さと大きさのartを生み出す可能性をもたらすのである。ただしここでいうartとは,拙稿「社会と文化」の文頭で触れた,人類の知性の所産の総体である。つまり,すべての差を個体差に還元してしまうと,分集団という共同幻想をもたないとできないようなartは生まれない。大きなartがない世界は灰色かもしれない。極論すれば,世界認識は個体の幻想にすぎないのだから,その幻想が共有されて悪いことはないし,それが文化を認めるということであろう。

「種はない」とか「性別はない」とかいう議論は,厳密な線引きができないという意味では正しい。しかし,大雑把なくくりとしての分集団(個体間の比較を通して差異によって定義される)は,操作概念として便利なだけでなく,自分が属する文化に世界認識の拠点を置かざるを得ない個人にとっては,それがないと判断の基準がなくなってしまうくらい不可欠なものなのだろう。くくりに属しにくい個体にとっては不幸だが,仕方ないのかもしれない。これほど全世界で宗教がはびこっていることから考えれば,分集団に上位自我を求めずに世界認識ができる個人などほとんどいないのであろう(くくりに属しにくい人よりも,なんらかの宗教の信者の方が数の上では遙かに多いから,こういう世界になっているのだろう,ともいえる)。分集団は,差異によって定義される以上,排他性をもちがちであり,それが多くの不幸の源であるという意見には変わりないのだが,分集団をなくすというのは暴論であった。やはりバランスが大切であるという,わかったようなわからないような結論で今日は終わる。…しかし,1年後くらいに読んだら赤面しそうだなぁ,この文章。(2000年3月24日追記:赤面しております)


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