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2011年2月ソロモン諸島往還記

Copyright (C) Minato NAKAZAWA, 2011. Last Update on 2011年7月11日 (月) at 17:30:01.


【第1日目】 長旅(2011年2月8日火曜)

予定通りに6:50に研究室を出て病院前に行って愕然とした。タクシーが1台も待ってないのだ。慌てて敷島タクシーに電話して1台配車してもらい,病院の入口の門のところで乗って,前橋駅南口に着いたのが7:10だったので事なきを得たが,一瞬アザレア号のキャンセルと払い戻しまで覚悟した。

駅の中のNewdaysで握り飯とホット生姜チャイと日刊スポーツと週刊アスキーを買い,定刻の7:20に発車したアザレア号の中で朝飯を食べ,日刊スポーツと週刊アスキーを読んでしまうまで40分ほどかかった。ちょうどそのとき,アザレア号は高崎に着いた。ここまでは思ったより遅いペースだった。その後は睡魔に襲われて熟睡してしまい,気が付いたら10:50頃で空港第二ビル直前のパスポートチェックのところだった。だから途中はわからないのだが,予定通りの運行だったといえる。実際,第一ターミナルに着いたのは,予定ぴったりのちょうど11:00だった。

早速大韓航空のチェックインカウンターに行って,事前に旅行社から聞いた通り,ブリスベンまでのeチケット控えだけでなく,ブリスベンからホニアラまでのeチケット控えも見せて,荷物をホニアラまでスルーにしてくれるように頼んでみた。暫く端末で調べてくれて,スルーにする(駄洒落か! しかもkagerou並みの)こと自体は問題ないとわかった。これで一安心かと思いきや,端末を操作してくれていた女性係員が,申し訳ありませんがお客様,本来はお預かりする荷物は20 kgまでで,5 kgほどはサービスさせていただいておりますが,29.5 kgとなりますと,超過料金をいただくことになります,と言うのだ。いくらか聞いてみたら,距離が長いので26,400円になりますということだった。1万円くらいなら払うつもりでいたが,さすがにちょっと高いので,預け荷物にする予定だったものの中から紙類を取り出して軽くすることにした。結果,3 kgしか減らせなかったのだが,今回だけですよということで超過料金は取られなかった。いい係員に当たったと思う。

成田空港第一ターミナルの東京三菱UFJ銀行

無事にチェックインが終わったところで,今度は銀行を探した。日本円のTCを作らないと,ソロモン諸島の銀行でソロモンドルにするときのレートが悪いのだ。壁の地図を見ると南ウイング近くに三菱UFJがあったので,そこまで歩いて行った。手数料を2%取られたが,日本円TC自体はスムーズに買えた。落ち着いてみると時間的にちょうど昼なので,昼飯を食べられる場所を探した。スープストックトーキョーとか出汁入りお茶漬け専門店とか,魅力的に見える店は軒並み満席だったので,諦めて和食レストランでざるそばセットを食べた。まあ普通の味だった。その後,若干の土産物を買い,手荷物検査場,出国審査を通って,ボーディングゲートまで,とくに何事もなく行けた。ボーディング開始まで10分しかなかったが,試しに無線LAN接続を試してみたら,NARITA AIRPORTなんたらというサービスがあって,一時的な契約もできるようだったが,ローミングサービスがあったので,econnectのうちのBB Mobileのローミングを試してみたら,あっさりつながった。時間が無かったのでメール受信と1通の返事だけしかできなかったが,これは使えると思った。

大韓航空機の座席下ソケット

ぼくが乗ったソウル(インチョン空港)行きの大韓航空機はほぼ満席であった。かなり新しい機体で,当然のように個人用ディスプレイがすべての席にあったし,何故か椅子の下にRJ45ソケットが付いていて,もしかしたらLAN接続もできるんじゃないかと思われた(注:これは大嘘であり,後で右の写真を見てみたらUSBソケットを見間違えていただけだった)。定刻に出発し,順調なフライトだったが,席が40Gという前に何もない席だったので,コンピュータも上の荷物棚に載せざるを得ず,飛行中に取り出せなくなってしまったので,RJ45は試せなかった(注:もし試そうとしていたらRJ45でないことに気付いたはずだが)。無料でステレオイヤフォンをくれたのだが,自分のものの方が音質がいいので,それをつないでREDという映画(ブルース・ウィリスが年老いてCIAを止めたけれども命を狙われて,昔の仲間と一緒に戦うというのが大まかなストーリーで,相変わらずの無敵ぶりが笑えた)を見ていたら,あっという間にソウル(インチョン空港)に着いてしまった。REDが最後まで終わらなかった。2時間10分のフライトとはこんなに短いものか。それに,ソウルとは時差もないので,あまり国際線に乗った気がしない。ただし,イヤフォンから日本のポップスなどは流れて来ないし,キャビンアテンダントさんもほとんど日本語はわからない(日本語がわかる人と中国語がわかる人が各1名乗っているそうだが,他は韓国人)のが,国内線と違うところだ。なお,軽食が出たので,昼のざるそばセットは妥当な選択だったと思う。あと,飲み物サービスでトニックウォータを頼んでみたら,カナダドライの韓国版のものが出てきた。成分表示などがハングルなので不明だが,あれにもやはりキニーネは入っているのだろうか。

途中までは韓国に入国する人たちと一緒に歩き,2つのターミナル間のシャトル列車に乗ってから,transfer(注:普通はtransit passengerというと思うが,インチョン空港の乗継ぎ客向けの表示はすべてtransferとなっている)の客は手荷物検査場を通らねばならない。けれども,ボーディングパスの発券は成田で済んでいるし,荷物はホニアラまでスルーなので,手荷物検査場でのチェックを受ける以外はトランジットの手続きは何もない。ブリスベン行きは30番ゲートから出るので,まずその近くまで行ってみることにした。30番ゲートに着いて反対側を見ると,偶然にもそこはインターネットエリアなのだった。飲み物は持ち込み可だったので,入口の売店でブラックコーヒー(一応ホットだがあまり熱くはなかった)を買ってから,空いている席に座った。Y5を開いて無線LANスイッチを入れ,ネットワーク接続を有効にしてみると,Airport Free WifiとNAVER Free Wifiの2つが感度良く接続できそうだった。そこで,最初はこのスペースの入り口に英語で書かれていた通り,NAVER Free Wifiを選んだ。セキュリティに問題が生じるかもしれませんがお客様の責任でおつなぎください,それでOKですか? という感じのメッセージがでて,チェックボックスにチェックを入れてNextをクリックすると,無事に接続できた。しかしメールを受信後,返信文を打っているうちに切れてしまい,再接続できなかったので,いったんネットワーク接続から修復を選んでから,今度はAirport Free Wifiの方を選んでみた。こちらは何も手続きが必要なく,クリックするだけでつながった。実は有線でもつなげそうだし(椅子には電源コンセントと並んで,今度は本当にRJ45らしきソケットもあった),コンピュータを持っていない人でも無料で使えるノートパソコンも多数置かれているので,インチョン空港はインターネット環境については文句のつけようがないと思う。


【第2日目】 涼しいブリスベンの朝から暑いホニアラへ(2011年2月9日)

ボーディングも無事に済み,ブリスベン行きの飛行機もほぼ定刻に飛び立った。大韓航空は優秀だ。キャビンアテンダントさんが韓国語メインで,英語もあまりうまくない(たまたまそういう人に当たっただけかも)のが難で,機内食(晩飯と朝の軽食の2回)の候補が2種類あったのに,自分が選んだものでない方が何だったかが良くわからない(周りを見ていたら,晩飯はビビンバのようなもの,朝食はおかゆのようなものだったが詳細不明)が,それ以外はとくに不便も無かった。ほぼ満席だったが右隣が空席だったのはラッキーだった。ただ,この大韓航空機は座席下のスペースが狭く,荷物を上の棚に載せるしかなかったので,途中コンピュータを出す気になれなかった(注:復路は違ったので,すべてがそういう機体なわけではなく,偶々運が悪かったのだろう)。この便でもメディアサービスは各座席についているディスプレイで,映画や音楽のメニューはたぶん成田=ソウルと同じでREDが入っていたので,わりと早い時間帯にREDの続きを見てから,MORNING GLORYという映画を見た。テレビのモーニングショウのディレクターとして奮闘する若い女性が主人公で,ハリソン・フォードが演じる偏屈でプライドが高い老ニュースキャスターもいい味を出していた。後は仕事をするのは諦めたので,JAZZを小さな音で聴きながら眠っていた。

ブリスベン到着もほぼ定刻通りであった。乗継ぎ客が自分以外にはたぶん1人しかいなかった。しかも,それは,ポートモレスビーに向かうという,日本オセアニア学会会長の吉岡さんであった。何という偶然だろう。驚いた。20年ぶりのパプアニューギニアだそうだ。最近は非常に危険らしいので一人では出歩くなとか一人でバスに乗るなと言われたけれども,それではどこも行けないなあという話をされていた。誰か現地の人にエスコートしてもらうしかないということだろう。まあ1996年とかでも強盗団は跳梁跋扈していて,似たようなことは言われていたし,実際にぼくも夕方頃にボロコ地区という中心市街地のスーパーの前を一人で歩いていたら,親切な現地の人が近寄ってきて,こんなところを一人で歩いていちゃダメだ,強盗団に取り囲まれてあっという間に暗がりに連れ込まれて,身ぐるみ剥がされてしまうぞ,と警告されたことがあったっけ。

ポートモレスビー行きはトランジットカウンターでの扱いがあるのだが,ホニアラ行きは例によって直接ゲートに行けと言われたので行ってみると,まだ3時間以上あるので当然だが,ゲートは無人であった。仕方ないのでトランジットカウンターの近くに戻ってコンピュータを開いた。電波状態が安定せず,メール受信ができないので,とりあえずこのメモを打ってみた。1時間くらい経ったところで吉岡さんと別れ,ゲートの近くに移動したが,同じ81番ゲートからNZのウェリントン行きが先に出るらしく,カウンターにはその関係者しかいなかった。聞いてみたのだが,まだ早いから後で来いと言われてしまった。

その後暫くコンピュータを開いて作業していたのだが,8:00を過ぎてウェリントン行きが81番ゲートを出てしまっても,ソロモン航空の人々が来る気配がない。まったくない。だいたい,一応ジェットではあるが,あんな小さな飛行機にこんな空港のど真ん中のいいゲートを使わせてもらえるわけがなかったのだ。どこまで歩かされるのだろうと恐れつつ電光掲示板を見てみると,不幸中の幸いというべきか,隣の82番ゲートに変わっただけであった。で,82番ゲートに行ってみると,これがまた無人なのだ。だいたい飛行機が来ていない。仕方ないので,4ドル20セントのカフェラテ(そこそこ美味であった)を買って飲みながら,82番ゲート近くの椅子に座って,飛行機が来るのを待つことにした。

10分くらい待つとStrategicというロゴが機体に入った,他の飛行機より2回りくらい小さい,いつものジェット機が来た。それからさらに10分待って,漸く係員が82番ゲートにやってきた。去年張り切っていた若い男性ではなく,中年(と思われる)白人女性であった。コンピュータが起動するまで少し待ってね,といいながら端末を操作すること2分くらいだったか,本当にこのコンピュータは遅くてね,と言い訳していたが,コンピュータが起動してからのチェックイン作業はスムーズだった。もっとも,乗客一覧表をパスポートと照合チェックし,成田からスルーになっている荷物1個を(1個だけね,と確認して)コンピュータでチェックし,既に用意されていたチケットをくれるだけなので,スムーズで当然なのだけれども,かつて手際の悪い係員に当たった時は,この作業だけでも30分とかいうこともあったので,油断はできないのだ。

無事にチェックインできて,ボーディングまで35分の余裕があったので,トイレに行ってから,再びコンピュータを開いてYes Optusへの接続を試みた。去年9月に登録したので,ユーザIDとパスワードと使用時間を入力するだけで使えるはずなのだが,どうも回線が不安定らしく,なかなか接続できない。試行錯誤しているうちにボーディング開始時刻の10分前になってしまった。今日はブリスベンでの接続は無理かも。メールだけでも見たいのだが……。

結局,Yes Optusのログイン画面までは行くのだが,30分使う設定にして[Next]をクリックするとThe service is temporally unavailable. Please try later again.とかいうメッセージが出るという空しい反復作業をしただけでFinal boarding callがアナウンスされてしまったのでネット接続は諦め,ボーディングゲートを通った。この飛行機は小さいのだが座席の下は十分に広く,コンピュータが入っているザックを仕舞うことができた。それで,ドリンクサービスで貰ったトマトジュースを飲んでしまってから,こうしてY5を開いている。少しは仕事をしておこう。

ほどなく着陸が近いというアナウンスが入ったのでY5を閉じた。着陸はほぼ予定通りの時刻だった。入国審査も検疫も税関もほとんど問題なく通れたので,14:15頃には外に出ることができた。我々の調査とワークショップのカウンターパートであるNHTRI(注:National Health Training and Research Instituteの略で,ニットリとかナットリと発音するそうだ)のFさんに,可能だったら迎えに来てほしいとメールしておいたので少し待ってみたが,来なかった。きっと忙しいのだろうと思われたので,諦めて14:25頃タクシーに乗った。メンダナホテルに着いてチェックインし(222号室),荷物を置いて再び外出したのは15:00頃だっただろうか。道路が渋滞していたせいか,意外に時間が経っていて,NHTRIが入っている建物に着いたら15:30だった。ちょうど外にVector-Borne Disease Control SectionのA氏がいたので挨拶して来週のワークショップをよろしくお願いしますとお伝えしてから,階上に行った。NHTRIにはJさんと新しいDirectorであるD氏がいたが,やはりFさんはいなかった。brotherが亡くなったので葬儀などで不在だという話で,しかし明日は10:00までには来てくれるというので,明日打ち合わせをすることになった。今回のワークショップでは保健省の新しい公衆衛生局長であるT博士にも喋っていただくということになっているし,明日はその方へのご挨拶もしなくてはならない。非常に忙しい人という話なのでD氏にアレンジを頼んで,ダメもとで銀行に寄ってからホテルに戻ることにした。

ANZ Bankが開いていたので入ってみたら,外貨交換は既に終わったとのこと。他のサービスは16:00までらしい。隣のBSPはもう入口にカギがかかっていた。しかたないので銀行に行くのは明日の朝8:30より前にBSPに来ることにして,WINGSスーパーマーケットに行って村に持っていく消耗品(インスタントコーヒーなど)を買った。

疲れ果ててホテルに帰り,充電設定をしてからコーヒーを飲むことにしてテレビをつけたら,MTVでLIVE IN MALAYSIAという番組をやっていて,Wonder Girlsという女性5人組がパフォーマンスしているのだが,どう見てもKARAだった。偽物? それともマレーシアや香港では違うグループ名で活動しているとか?(注:後で知ったところによれば,Wonder GirlsはKARA,少女時代と並んで韓国の三大POP IDOLとも言われている人たちで,KARAとも同じころデビューしていたようだった。が,偶々これまでタワレコなどで目にしたことがあったのがKARAと少女時代だけで,Wonder Girlsは見たことがなかったので,こういう感想になった。しかし五人組女性でライトセクシー路線のポップアイドルという記号として捉えると,やはりWonder GirlsとKARAはまったく区別がつかないのであった)

その後,部屋の電話が鳴ったので出てみたら,NHTRIのJさんからだった。D氏がさっきやってみると言っていた保健省公衆衛生局長とのアポが取れて,明日の10時以降ということになったので,銀行に行って日本円TCをソロモンドルに換えてからNHTRIに行ってD氏,Fさんと合流し,皆で保健省のDIRECTORに会いに行くといいだろうという内容だった。まあ理想的な展開と言えよう。よくわからないのだがNHTRIの中でも業務分担があって,Jさんはトレーニング系がメインで,調査サポート系の仕事はあまりやっていないらしい。

受話器を置いた後,Y5を起動して無線LAN接続の状態を見てみたら,MENDANA EAST1,2(メンダナホテルには無線LANのルータがたぶん3台あって,EAST1,EAST2とWESTだが,部屋によってはどれも受信できなかったりする)ともかなり良好に入る部屋だった。これはやはりBumblebeeカードを買って来なくてはなるまい。事前にI君から得ていた情報の通り,メンダナの売店では売らなくなっていたので,Telecomに行って来るか。

しかし,Telecomも16:30で閉まっていたのだった。疲れていても続けて動くべきだった。仕方ないのでKING SOLOMON(メンダナとは別の大きなホテル)まで歩いて,250 MBを7日間以内に使うBumblebeeカードを買った。日本で契約しているeconnectが1ヶ月使い放題で380円であることを思うと,1週間で250 SBD(3,000円以上相当)は高いと思うが,alternativeが無いので仕方ない。

夜は,息子と同じ高校の剣道班にお嬢さんが通っているということから知り合いになった北野建設のYさんと,JICAのソロモン事務所にお勤めで,ぼくの妻の勤務先である長野県短期大学のご卒業であるAさん(しかもAさんの妹さんが一時期群馬大学に勤めていて,教職員ソフトボール大会で昭和キャンパスチームのチームメートだったこともある)と,群馬大学保健学科の臨床検査技師のコースをご卒業でJOCVの隊員としてソロモン諸島滞在中の方(申し訳ないがお名前は失念してしまったが,疫学の林先生の授業を受けたことはあるそうだ)と一緒に晩飯を食べた。不思議な縁もあるものだと思いつつ,長野の話と群馬の話で盛り上がった。前橋のSATYと駅前のイトーヨーカドーが潰れた話をしたら,みな一様に驚いていた。Yさんの現場はホニアラから東に暫く行ったところだそうで,ぼくが調査している村に行く途中にあるらしいのだが,これまでTelecomの携帯電話を使っていたけれども,先月,島の東側でBe-mobileの設備増強があったそうで,圧倒的にBe-mobileの方がアンテナが立つので,simカードを換えたそうだ。ぼくもBe-mobileの携帯電話を買おうと決意したのは,大きな収穫であった。また,この夜の晩飯はYさんにご馳走になってしまい,大変恐縮した。

その後暫く仕事をしたが睡魔に負けそうだったので,とりあえずシャワーで汗を流すことにした。しかし,222号室は無線LANの入りがいいという利点もあるが,シャワーが霧状にしか出ないという大きな欠点があった。村から戻って来たら別の部屋にしてもらおうと思う。明日は現地時間で8時には動きださねばならないので,日本時間で日付が変わりそうな頃に眠りに着いた。


【第3日目】 村へ(2011年2月10日)

「Le Ciel」で6:30起床。何だか寝苦しくて良く眠れなかったため,まだ眠い。変な夢をたくさん見た気がする。4時間半は眠っているはずだが,眠りが浅いとダメだ。

Bank of South Pacific (BSP)には,8:30の開店と同時に入ってすぐに日本円TCをソロモンドルに換える手続きはできたのだが,職員が不慣れなので,(2人がかりで応対してくれたのだけれども)50分も取られてしまった。ソロモンドルが昨年9月よりさらに安くなっていて,1 SBDが10円台だった。このまま行くと10円を切ってしまう日も近いかもしれない。

銀行の並びにあるBe-mobileの店で249 SBDでNokiaの本体とSIMカードと1 SBD分の通話とActivationサービス込みで携帯電話を買ってから,NHTRIへ向かう途中の広場にあるKai barでCurry Lottiという野菜カレー入りのフォカッチャのようなもの(12 SBD)とウインナーロール(13 SBD)を買って食べた。朝食としてはボリュームも味もちょうど良かった。

NHTRIに着いたのは9:40頃だった。10時にはFさんが来るはずなので待たせてもらうことにした。D氏が気を遣ってFさんに電話をしてくれたが,切れていてつながらなかった。

さてしかし。例によって,待てど暮らせどFさんは来ないのだった。結局11時頃になって登場した。日曜にずっと入院していた兄弟が亡くなったので,水曜まで親戚一同で眠らずに喪に服していたそうだが,ずっと咳をしていて具合が悪そうなのが気がかりだ。これから一週間の怒涛のスケジュールを乗り切れるのだろうか。ともかく,昨日メモした通り,10時過ぎにD氏とFさんと一緒に保健省へ行って公衆衛生局長に会うことになっていたのだが,キャンセルするしかなくなったのは問題だ。D氏が再度電話してくれて,13:30から14:00の間に時間が取れるかもしれないということだったが,多忙な人なのであまり期待できないようだ。その場合は月曜に会うしかないとのこと。

それで,とりあえずFさんと一緒にレンタカー屋に行ってHiluxを借りようということになったわけだが,これがまた大変だった。かなり前にメールで,今回は人数から言ってもRAV4ではなくてHiluxが必要と連絡しておいたので,当然Fさんもレンタカー屋(PACIFIC CASIO HOTELにあるSupreme Car Rental)に確認済みであろうと思いきや,確認をしようと思っていた矢先に前述のごとく服喪になってしまったため,まったく何も連絡していなかったのだった。ドライバーを紹介してもらう都合(レンタカーの契約時にドライバーの名前などの情報と運転免許が必要)もあって,毎回,レンタカー屋との事前交渉はFさんにやってもらっているのだが,何か別のやり方も検討するべきだと思う。さてSupreme Car Rentalの返事はというと,Hiluxは顧客からの苦情が多くて対応したくなくなったので売り払ってしまったというのだ。RAV4なら用意できるそうだが,日曜に引き上げてくるときなど,絶対にRAV4では乗れる人数が少なすぎる。他のレンタカー屋を当たってみると,Budgetという店には電話で連絡がつき,やはりHiluxはないとの返事だったが,本来はカーディーラーであるEla Motorsでもレンタカーをやっているという情報をつかんだので行ってみることになった。

Ela Motorsでは奥の部屋に通されて丁寧に応対してもらえた。Hiluxどころかランドクルーザーを800 SBD/日で用意できるしデポジットも5,000 SBDでいいよ,という返事で一瞬喜んだのだが,糠喜びであった。つまり,ここは日常業務としてレンタカー屋をやっているわけではないので,車を用意するために15日までかかるというのだ。1週間前に連絡してくれれば何とかなったのに,と散々言われたが,仕方が無い。しかしここで簡単に引き下がるわけにはいかない。何とか土日だけでもHiluxを調達しなくては調査ができないのだ。Supreme Car RentalでダメだったときにFさんがG-Province(ガダルカナル州政府)の保健局に連絡してくれて,土日だけなら貸してくれると言われたのだけれども,マラリア陽性の人の治療のためには月曜も必要だし,Workshopのときも使うと思うので,できれば通して借りたい。それで,Ela Motorsのカウンターで応対してくれていた男性に,ホニアラにレンタカー屋は他にないのかを尋ねてみたら,いつもガソリンを入れている中華街のガソリンスタンド(David Qwan――スペルは嘘かも――という人が経営している)が,専業ではないがレンタカーもやっているはずだから当たってみてはどうかと勧められた。

そこでFさんとともに再びタクシーに乗り,中華街のガソリンスタンドまで行ってみた。カウンターの女性に当たってみたところ,2台あるのだけれども,1台は壊れているし,もう1台は新品なので一日1,000 SBD以上の値段な上に,既に予約が入っているので翌日1日しか貸せないという話だった。実はオーナーの奥さんがFさんの親友だというので,最初に応対に出たレジの女性の木で鼻をくくったような返事よりは随分マシな返事になったのだけれども,無い袖は振れないというやつだ。

これだけ八方手を尽くしてもダメということは,もう本当にダメと考えるしかないので,OK諦めた,こうなったらSupremeでRAV4を1週間借り,それとは別に土日はG-ProvinceからHiluxを借りよう,とFさんに言って,タクシーをSupremeへやってもらった。今度は無事に交渉が成立し,RAV4を1週間使える状況まではもってきた。あとは無事に土曜にG-ProvineのHiluxが来るかどうかだ。

昼飯がまだだが,13:30近かったので,保健省の公衆衛生局長のところに直行し,1時間待ったが,結局会うことはできなかった。時間の無駄だったが仕方がない。かなり遅くなってしまったので,慌ててメンダナホテルに引き返してチェックアウトした。ワークショップで使うプロジェクタだけは,村にもって行きたくなかったのでホテルのカウンターに預け,翌日到着予定の大前先生に渡してくれるように頼んで,他の荷物を全部RAV4に積んで出発したのは15:30頃だったように思う。途中で携帯電話を"Top up"した。"Top up"とは自分の番号を教えて金を渡すと,店が持っている携帯電話の利用可能残額から振り分けてくれるサービスであり,携帯電話が使える場所でありさえすればどこでも可能だし,とくに電話会社と代理店契約などしなくても営業可能な仕組みで,うまくできていると思う。仕組み上,店の携帯電話の利用可能残額までしか契約できないため,その店では15 SBDしか残っていなかったので,15 SBDだけ払った。手数料がかかるので,自分の携帯電話の利用可能残額は12 SBD強しか増えなかったが,別の店に寄る暇もなかったし,それほどホニアラと電話する必要もなかろうと思ったので,それで手を打ったのだった。後になってから,多少時間がかかっても,もっと増額しておくべきだったと後悔したが,このときは,まさかそんな必要が生じるとは思わなかったのだ。

途中1本の小川を突っ切った以外はわりと道は良くて,村に着いたのは17:00頃だったと思う。先行していた石森君がすぐに気付いて出てきてくれたが,いつも家を借りて住ませてもらっている神父CS氏は不在であった(CS氏はセントラル州のツラギという町に家族を連れて赴任中なのだが,家は村にあって,来るたびに開けてもらっている)。今回は何度かメールを送っていたのだが返事が無く,どうしたのだろうと思っていたが,村人の話によると,彼の属する教会に新しい大司教が着任するので,今月20日に歓迎記念式典をすることになっており,その式典の一切を彼が取り仕切らなくてはいけないので,無茶苦茶に忙しいのだそうだ(追記:式典を報じるSolomon Starの記事。これだけ盛大な行事を仕切らねばならないとあれば,確かに健診どころではなかっただろう)。たぶん今回の健診を受けることもできないし,ワークショップにも来られないらしい。鍵を借りることもできなかったので,別の住処を探す必要がある。幸い,2日前に着いた石森君が住ませてもらっている家(本来は何人かの子供たちが眠るだけの家として使われている)には空きスペースがあったので,そこに住ませてもらうことになって一安心……と思いきや,その家は入り口が背よりも高いところにあって,階段を上がらなくては入れないのだが,いきなり一段目を踏み抜いて壊してしまったので,まずはその修復を,そこに眠っている子供たちの祖父であるJC氏がしてくれるまで待つことになった。石森君は壊さずに利用していたわけで,ぼくの体重が重いから悪いのだということで笑いをとってしまった。減量せねば。RAV4には,明日は日本から着く3人を迎えに飛行場に行ってくれることと,土曜は7時にホテルに3人を迎えに行って村に直行するように頼んで帰ってもらった(ガソリン代と日当を含め,翌日分も支払いをした)。

修復後はとくに問題なく利用できたが,蚊帳を張ったり床に敷くマットを借りたりしているうちに暗くなってしまったので,JC氏の家で晩飯(芋を煮たものとコーヒーだけのメニューだったが,実に美味であった)を食べさせてもらった後は,石森君と暫く情報交換をしてから眠った。


【第4日目】 常住人口調査と健診の宣伝の日(2011年2月11日)

隣家でラジオが夜中まで鳴っていてうるさかったが,7:00までしっかり眠ることができた。海岸の近くのブッシュで用便を済ませ(この村では皆がそのように野糞をする。男性の場所と女性の場所は分かれているが,最初の頃は誰か来るんじゃないかと気が気ではなかった。しかし,たぶん日本人が用便中であるという情報はそれとなく村中に伝わるようで,子供さえ用便中に近くに来たことはない),JC氏の家で朝飯を食べてから,石森君とJC氏と一緒に7つの小村落を回って,常住人口の聞き取り確認をしながら,翌日からの健診の宣伝をした。

途中,水溜りに渡した倒木の上を歩いていて,倒木が傾いたために右足だけ一瞬水に漬かってしまったのと,橋も倒木もまったくない小川を飛び越えられそうになかったので,一瞬だけ右足を川の中ほどに着水させ,川底を蹴って向こう岸に渡るしかなかったのとで,右の靴の中に少々浸水してしまい,やや気持ち悪かったが,聞き取り自体は順調に進んだし,健診宣伝の反応も良かった。ちなみに村人はたいてい裸足かサンダル履きなので水に浸かって歩くし,サンダルを持ってきていた石森君も村人と同じく水に浸かって歩けるのだが,ぼくは,出発前の荷造りのときにサンダルを入れ損なったので,靴一足しか履くものがなかったのだ。下手を打ったとは思うが後悔先に立たずであった。

新しい井戸途中のKepi村で驚いたのは,新しく井戸ができていたことだ。ニュージーランドの何かの団体とSDA教団の何かの援助でできたそうだが,いくつもあった。できてから2ヶ月くらいしか経っていないので,水は比較的きれいそうだったが,開放水面が比較的浅い所にあるため,たぶん蚊の繁殖場所になってしまいそうだった。蓋くらい付ければいいのにと思ったが,実は簡単に開け閉めできる蓋を付けるのは,プラスティック製品以外では案外難しいことかもしれない。木材では重くなってしまうし,ビニールシートでは風で飛ばされてしまう可能性がある。ここはやはり援助側がプラスティック製の蓋もつけていくべきだったと思う。

4つの村の聞き取りが終わったところで昼過ぎになったし,4つ目の村の住人であるP氏がたくさんのポポをくれたのを持ち帰りたかったこともあって,いったん家に戻って荷物を置き,JC氏の家に行って昼食を食べた。その後は雨が降ったりしたので,コーヒーを飲みながら,明日以降の予定を話し合ったり,ワークショップで石森君と連名で発表する予定のテンションの影響について話し合ったり,水浴びに行ったりしていて,気が付くと17:00頃になっていた。残りの村の人口調査と健診宣伝を終わらせようと,我々が住んでいるバンバラ村の聞き取りを済ませてから隣村へ行ったところ,運よくすぐに終わらせることができた。

住処に戻ってから携帯電話の電源を入れてみたところ,アンテナが4本も立った。Be-mobileは,この電気のない村でも完璧に使えるのだ(Telecomは徒歩10分ほどのところにある診療所の建設予定地まで歩かないとダメなのだそうで,北野建設Yさんの話の通りだった)。長期入る時は太陽電池充電器か予備バッテリーが必要になってくるかもしれないが,今のような感じの調査なら,ホテルでフル充電(充電器が100-240V対応なので,実は日本でもマルチコネクタさえ通せば充電しておけるが)と十分な通話残額になるようにBe-mobileに入金してから村に入ればまったく問題ないだろう。まずメンダナホテルのフロントに掛けて山内さんを呼び出してもらったが不在のようだったので,諦めて後で掛け直すことにした。次に翌日7時ということを念押しするためにFさんに電話をしてみたらちゃんとつながって,自分はワークショップの準備で忙しかったから飛行場には行かなかったけれども運転手を派遣したから大丈夫だといい,明日の7時も大丈夫だという。それが本当なら嬉しいのだけれども,G-Provinceの車をちゃんと借りて7時にホテルに行くなどという難しいことが,そうそうスムーズに行くとも思えないので,半信半疑で聞いておいた。たぶん30分くらいは遅れるのだろうなあ。

JC氏の家での晩飯は野菜がたっぷり入ったラーメンと白米と各種イモ類という,いつものメニューだったが,トマトとピーマンを小さく切ったものをラーメンにぶち込んだものが非常に美味だと思われた。食後に,村人も交えて何ということのない話をしながら飲むRobert Timmsのインスタントコーヒーの一杯がまた美味で(フィールドにいるからそう感じるだけなのだとは思うが),至福であった。

住処に戻ってから再度メンダナホテルに電話をしてみたら,今度は山内さんにちゃんとつながったが,実はドライバーI氏が迎えに来なかったのでタクシーでホテルまで行かざるを得なかったそうだ。途中,反対車線で交通事故があって道路がふさがっていて,遅くなってしまったから迎えに行かなかったというのがI氏の言い訳だったそうだ。先が思いやられるがソロモン諸島ではよくあることだ。こうして携帯電話が使えることがわかったからには,I氏の電話番号も聞いておいて,直接コンタクトするべきだな。明日は7時に車が行くことになっているという件を伝えたところ,既にFさんから聞いていたそうで,そこは良かった。しかし,電話を切ってから,この携帯電話の番号を伝え忘れたことに気付いたのは間抜けであった。慌てて再度掛けようとしたが,通話可能残額は既に0.01 SBDしかなくて掛け直せなかった(*121#と打って通話ボタンを押すと無料送信により残額が確認できるようになっている)のは間抜けであった。もちろんFさんには番号を教えてあるので,来る途中で問題があった場合は連絡可能だが,ホテルに迎えに行く前の問題には対応できない。まあその場合はFさんからホテルに連絡が入るだろうが……。

眠る前に蚊帳の中で靴下を脱いだ瞬間,濡れたまま乾くまで履いてしまったという恐ろしい状況の右足から立ち上った,何とも言えないひどい臭いには気絶しそうになった。なるべく足先の方に置いたが,それでも臭う。捨ててしまった方がいいかもしれない。


【第5日目】 健診一日目にしてお別れパーティの日(2011年2月12日)

6:45に起床し,用便と朝食を済ませて8:15には健診準備を完了していたが,まったく車は来ないのだった。何人か村人が健診を受けに来たのだが,申し訳ないがまだホニアラからのチームが来ていないのでもう少し待って欲しいとお願いするしかなかった。

9:00に山内さんから電話が掛かってきてわかったのは,事態は予想以上に悪いということだった。こちらの番号をFさんから聞いて,Telecomのsimカードを自分の携帯電話に挿して掛けているのだけれども,いまホテルを出たばかりだという。ホテルにもこちらにもまったく連絡もなく2時間遅れてやってきたFさんが言うには,確保していたはずのG-Provinceのドライバーが確保していたはずのHiluxに乗ってどこかに行ってしまって連絡もつかない(たぶん前日の金曜に酒を飲み過ぎて眠っているのかもしれない?)ので,急遽別の車と別のドライバーを探すのに2時間(土曜の朝だから当然だが)かかったということだった。木曜も10時と言って11時だったから,1時間くらいの遅延は覚悟していたが,2時間,連絡もなく遅れるのはひどいと思う。日本ならクビであろう。しかし研究所には彼女しか動ける担当係官がいないし,ご兄弟のご不幸とか,ワークショップの準備が忙しいこととかで,過大な負荷がかかっているのは間違いないし,彼女の言葉を信じれば,遅れてしまったこと自体の原因はG-Provinceの運転手にあるわけだから,同情の余地はあり,我々としては,ちゃんと連絡するようにしろとしか言いようがない。しかしそれがまた,前日にSupreme Car RentalからEla Motorsに電話するために,ぼくが50 SBD出して,彼女の携帯電話の通話可能残額を"Top up"した(CASINO HOTELではTelecomしか"Top up"できず,Be-mobileは扱っていないのだった)のにもかかわらず,自分の携帯電話は通話可能残額が0.2 SBDしかないので連絡できなかったというのだ。しかし土日の2日間しかない健診のスタートが大事なことは彼女だってわかっているはずなので,そこは自腹を切ってでも通話可能にしておくべきだろう。

いずれにせよ,これでは最短でもあと1時間は着かないので,待っている村人たちに,トラブルがあったので,あと1時間は健診を始められないと説明して,いったん帰ってもらわなくてはいけなかった。たぶん畑に行ってしまう村人もいるだろうから,健診の受診者が減ってしまうという意味でも,彼ら自身が健康状態をチェックするチャンスを失ってしまったという意味でも,非常に残念だ。

不幸中の幸いといえるのは,急遽G-Provinceから借りたという別のHiluxが非常にいい車で,ドライバーも優秀だったので,ホテルから村まで約1時間で着いたことだ。50 kmの距離だから,道路の状態が良ければ1時間で着くのは不思議でもないのだが,RAV4では1時間半から2時間近くかかるのが普通なのだ。7時ホニアラ発で9時スタートのつもりだったのが,9時ホニアラ発で10時スタートになったので,結果的には1時間の遅れにはなったが,それでも土曜朝の1時間の遅れによって減ってしまった健診受診者のことを考えると頭が痛い。

村でのお別れパーティのご馳走結局,昼飯を挟んで16:00頃までの間に57人の受診者があった。ホニアラから来たチームのうち山内さんも今夜は村に泊まることになっていて,CS神父の家が使えないのが問題だったわけだが,ぼくらがお世話になっている家で眠っている子供たちに,一晩だけ場所を貸してもらうことになった。荷物を住処に運び込んでからデータ入力とか受診者写真ファイルの整理とかをしていたらすっかり日が暮れた。作業が終わったのは20:00近かったと思う。晩飯が遅くなって済まないとJC氏の娘が言いに来たが,これはたぶんお別れパーティのご馳走を用意しているのだろうと思ったらその通りだった。鶏肉がしこたま入った水炊き風のスープが実に美味だった。この日は天気も良くて星空が美しく,素晴らしい夜であった。


【第6日目】 健診二日目を完了してホニアラへ(2011年2月13日)

前夜は隣家のラジオも結構遅くまで鳴っていたが,意外に良く眠れて,6:45に目が覚めた。石森君が10:30には村を出て空港に直行し,帰国の途につかなくてはならないので,HiluxとRAV4の両方が来ることになっているが,さてどうなることだろう。例によって用便と朝食を済ませたら7:30を過ぎ,昨日の結果つきの写真の印刷を始めた。8:00少し前,写真印刷が終わりそうになった頃,まずRAV4が到着した。これで,仮にHiluxが遅れてきても,石森君は帰国できるわけだ。

驚いたことに,8:10頃にはHiluxも到着した。昨日の失敗に懲りたのか,今日は時間通りにホテルに来たそうだ。すばらしい。日曜は村人が教会でお祈りをしているために,逆に出足が悪かったが,9:00頃から続々と集まりだし,石森君がRAV4で空港に向かう前に40人以上できたのは良かった。その後は受付をFさんに代わってもらい,指先穿刺を担当していたテクニシャンJ氏と,スライドへの番号書きをやってもらっていた運転手P氏に,Fさんがやっていた作業を割り振り,昼飯を挟んでさらに20人ほどの健診ができた。

健診チーム記念写真2011年2月15:00頃になると新規参加者が来なくなったので,健診を終わることにした。村人とお別れをし,例によって現地アシスタントにも入ってもらって健診チーム記念写真を撮ってから(既に空港からブリスベンに向けて飛び立ってしまった石森君が入っていないのが残念だが,朝などは記念写真を撮るような余裕はなかったので仕方なかろう),JC氏に住処と食事のお礼をし(賄い付きの延べ9泊分として,これまでの経験から村で妥当と思われるお礼をしたわけだが,これがメンダナホテルの素泊まり1泊より安いのは若干気が引ける),荷造りをしてHiluxでホニアラへ向かった。日本人4人とソロモン人3人(うち1人は運転手)が乗ったので,当然,全員が車内というわけにはいかず,FさんとJ氏は荷台になったが,まあ乗り切れてよかった。

メンダナにチェックインし,シャワーを浴びて髭を剃ってから,大前先生と山内さんと一緒に晩飯に出た。またもや上海である。餃子の中身にやたら葉っぱが多かったけれども美味だった。

ホテルに戻ってからはデータ入力と写真整理をして,ベッドの上で一休みと思って横になったのが失敗で,そのまま眠ってしまった。


【第7日目】 ワークショップ準備で眠れない日(2011年2月14日)

目が覚めたら4:00だったので,慌てて結果付きの写真印刷をした。7:00に山内さんと一緒にBread Kitchenにパンを買いに行くことにしていたのだが,とてもそんな暇は無かった。山内さんが一人でパンを買いに行ってくれて,クリームパンとスコンをインスタントコーヒーで流し込んで朝食としたが,基本的に8:00頃までワークショップで発表する資料の準備をしていた。一人でいくつも発表することになっているので大変だ。もっとも,これまでに発表した内容を整理したり英語にしたりするだけで準備できるトピックもあるのだが,それでも大部分は新作するしかなく,時間がかかるけれども,なかなかプレゼンファイルができないのだった。

蟲蟲大作戦ポスター

8:30にロビーに行き,迎えに来た車でNHTRIへ行き,結果付きの村人の写真をFさんに渡した。そこからは忙しすぎて良く覚えていないのだが,大前先生と山内さんとFさんと一緒にまず病院へ行ってワークショップ会場を確認することにした。病院のメインの外来とか病棟よりも東側に,数年前に台湾の援助で建てられたカンファレンス用のホールがあって,カオシュンの大学の大学院留学生受け入れ広告ポスターが貼られていた。ホールの向かい側には,台湾衛生中心(Taiwan Health Center)まであって,台湾のソロモン諸島援助に掛ける意気込みの大きさがうかがえた。ソロモン諸島は,世界でも数少ない,台湾を正式に国として認めている独立国として,将来の国連総会での貴重な一票になるに違いないので,台湾としてもメリットはあるのだ。

ホールは当然ながら閉まっていて,カギを借りに事務所に行ったら無人だったので,暫く待つ必要があった。9:00過ぎに無人の事務所というのも変だが,20分ほど待つと担当の女性がやってきたので事なきを得た。会場費を支払ってからカギを借り,会場を開けてみると,なかなかいい部屋だった。クーラーも4台あったし,プロジェクタも天井に2台取り付けられていた。もっとも,コンピュータにつなげるケーブルが会場後方にしか出ていないので,自分で操作することができないのは問題だと思った。けれども,交替でコンピュータ操作をすることにして"May I have a next slide?"というスタイルでもいいし,日本から持ってきた予備のプロジェクタは短焦点型だからスクリーン近くの台に置いて自分のコンピュータも手元に置いてプレゼンすることが可能だ。まあ問題ないだろう。会場の外をぐるっと見て回ると,台湾の大学がこれまでに作ったポスターが貼られていた。中でも気になったのが右上写真中央のポスターで,「蟲蟲大作戦」という名称が何ともいえない味を醸し出していた。

次は公衆衛生局長との会談である。電話によると10分くらいなら会えそうだという。大前先生,山内さん,Fさん,中澤の4人でチャイナタウンにある保健省の建物に行ってみると,入口のところにNHTRIの所長であるA氏がいたので,一緒に公衆衛生局長であるT博士の部屋に行って,調査とワークショップの話をし,土産物を渡してから,一緒に写真を撮った。これで一通りの表敬訪問は終わった。

Fさんがワークショップで使う文具類の伝票を切ってもらってから実際に文具店に行って買ってくるために車が必要だというので,我々はいったんホテルに戻って,久々にメンダナホテルで昼食をとった(カツ重を食べたが,それなりにいい味だった)。Fさんには他にもいろいろしなくてはいけないこともあり,その後では治療のために村に行ってもらわねばならない(実は感染強度が高いマラリア患者はいなかったので,それほど慌てて治療しなくても大丈夫だが)。村から帰ってきてワークショップ準備の仕上げにかかるまで,とりあえず暫く時間ができたので,発表準備に戻った。

準備されたけれども使われなかった,ワークショップ参加者用のIDカード

夕方,あまりにも動きが無いのでFさんに電話してみたら,驚いたことに,ちょうど良かった,やっと文房具が揃ったから連絡しようと思っていたの,というのである。あれ? だって,文房具って昼過ぎには取りに行くことになっていたんじゃないの? と尋ねると,昼過ぎに伝票を切ってもらうところに行ったのだけれど,書類ができてなくて1時間待ち,文房具屋でも待ち時間があって,やっと持ち帰れたところで,これがソロモンタイムってことよ,という感じの返事で,悪びれもせずにいるので,こちらも毒気を抜かれてしまって,どうしようもない。ともかく迎えに来た車に乗ってNHTRIのオフィスに行った。部屋の奥の方では,Fさんから手伝いを頼まれたという男性が,ワークショップ参加者用のIDカードを準備していた。なかなか格好いい。ともかく翌朝にはワークショップが始まってしまうので,最終的なプログラムはこちらで印刷して60部コピーするから,メールで送ってくれと頼んでから(FさんのコンピュータはUSBが使えないのだそうだ。ウイルスでも入っているのか,物理的な故障なのか不明だが,ファイルのやり取りはメール添付しかないとのこと。ちなみに,翌日のワークショップで,ソロモン諸島側の偉い人のプレゼン用ファイルを受け取るために,Y5にUSBメモリを挿してもらったのだが,ほぼ全員のUSBがUSB感染型のコンピュータウイルスにやられているのをMicrosoft Security Essentialsが検出したので唖然とした),再び外出した。

村から招待した人たちのための宿

まずは村から招待した人たちのための宿への支払いをしなくては,とFさんがいうので,その宿へ行くことになった。1人当たり1泊100 SBDという破格の安さだったことと,写真の通り,思ったよりも小奇麗なホテルだったのはいいのだが,問題は,宿そのもので働いている人たちは,お金を受け取ることはできるけれども領収証を切れないということにあった。チャイナタウンの事務所まで行かないと領収証を出せないというのだ。それくらい電話でブッキングしたときに確認しておいて欲しいと思ったが,きっとFさんは調査とワークショップで頭がいっぱいで,そこまで頭が回らなかったのだろう。というか,この宿が特殊なのだと思うが。チャイナタウンに行って支払いを済ませたら,既に17:40を過ぎている。次にケータリングによる昼食とコーヒーブレイクのための支払いをするため,NHTRIのオフィスに戻った。これが60人分なのだがソロモン諸島にしてはかなり高い(ランチが一人当たり80 SBD,コーヒーブレイクが一人当たり60 SBD)ので,もう少し安いところはないのか尋ねてみたのだが,最も安いクラスなのだという。考えてみれば外国人しかケータリングなんて頼まないかもしれないので,高くても仕方ないのか。2004年にウェスタンで頼んだケータリングも同じくらいの単価だったような気もするし。ただ,確か会合費用については,科研費では食事分は出せなかったように思うので,そうだとすると,ぼくが自腹を切るしかないのが痛いところだ(2月22日追記:群馬大学の用度係に確認したところ,昼を挟んで3時間以上の会議ならば昼食代も支出可能らしいので,とりあえず書類を作ってみる)。村からの出席者に払わせるわけにもいかないので,次回からはもう少し工夫したいところだ。

ケータリングサービスの店に支払いを済ませた後,これからFさんは本当に村へ行って来られるのか? と危ぶみつつも,ぼくは歩いてホテルに帰った。ワークショップで配るためのプログラム最終版がFさんからメールで送られてくるのを待ちながら,自分のプレゼンテーションファイルの準備を進めた。

美味だったモヤシ野菜炒め

18:30頃にFさんからメールで最終プログラムが届いたので(数日前のバージョンとあまり変わっていなかったし,一部昔の表記に戻ってしまっていたりして,却って改悪されていた部分もあったので,どうしてこんなに時間がかかったのか不明),まだ村に行っていないのかと電話をかけてみた。すると,半ば恐れていたのだが,これから村に行くと夜になってしまって路面が悪くて危険なので,明日の早朝に村に行くことにしたいとドライバーI氏が言っていて,村に行くのは明日の早朝でいいかというのだ。悪い予想が当たってしまった。ここまでタイトなスケジュールにしてしまうと,業者もしっかりしていないので待ち時間が増え,予定を全部こなせなくなるのは仕方ない。だから,今日行けないのはもう仕方ないと諦めるとして,問題はどうやって村人に投薬するべきかということだ。明日の朝に村まで行って,ワークショップが始まる時刻までに戻ってくるなどというウルトラCができるはずがないことと,急いで投薬が必要そうな人がいなかったことから,今回は村人の中でワークショップに参加する元マラリアテクニシャンであるCH氏に託すことに決め,そうしてくれるようにFさんに頼んだ。こういう場所では,出来る範囲で最善のことをやっていくしかないのだ。この状況では,村に薬が届くのが1日遅くなるというデメリットと,ワークショップ準備のためにFさんが朝からオフィスにいてくれるというメリットを比べたら,後者を優先する方がいいし,パンクとか交通事故があるかもしれないことを考えたら,事実上,明日の早朝村との間を往復するなどという危険なプランは容認できない。

そういうわけで,あとは日本人の発表分のプレゼンファイルを資料印刷形式で出力し,プログラムと合わせて印刷するだけになった。問題は,我々3人のうち,誰一人としてプレゼンファイルが完成品になっていないということだ。しかし腹が減っては戦ができないので,まずは前日同様,上海に晩飯を食べに行った。この日の一番の当たりメニューは,モヤシ野菜炒め(写真参照)だった。チャーハンが薄味だったのが残念だが,値段の安さからいっても,メンダナホテルへの近さから行っても,ホニアラでの食事ができる店としては,当分ここが第一選択肢のままだな。

ホテルに戻ってみると,フロントで頼んでおいたクリーニングが仕上がってきていた。常住人口調査の日に物凄い臭いになってしまった靴下も,ちゃんときれいになってきた。さすがメンダナホテルだ。大前先生と山内さんは21:30頃に相次いで仕上がったプレゼンファイルをもってきてくださったので,後は自分の分だけだ。


【第8日目】 ワークショップ1日目(2011年2月15日)

まずいことに,ふと気が付くとベッドの上であった。ちょっと一休みと思って眠ってしまったようだ。時計を見ると4:00だったので,まだ時間はある。しかし,自分のプレゼンはオープニングを含めて6題あるのだが,まだ4題しか完成していないので,ゆっくりしてはいられない。気を取り直してRobert Timmsのコーヒーバッグで美味なコーヒーを淹れて飲み,極限まで集中して残り2題分の資料を完成させた。いや,完成というには完成度が低いのだが,ともかくも話が完結するところまでもっていった。そこで時計を見ると,7:00近くなっていた。pdf reDirectというソフトを使って,すべてのファイルを配布資料形式でpdf出力して連結してみたら37ページあった。これを全部主要参加者分印刷するなど不可能だ。第一,紙が足りない。しかたないので,まず1部印刷し,2部目を印刷させながらホテルのフロントへ行ってコピーを頼んで部屋へ戻った。ほどなく2部目の印刷が終わったので,プログラム部分だけでもオリジナルを主要参加者へ配ろうと思い,最初の3ページを10部印刷させることにした。

ここで電話がかかってきた。受話器を取ってみるとフロントからで,何とコピー機が壊れたというのだ。天下のメンダナホテルでこれか! と脱力しつつも,次善の策を探すしかない。とりあえずフロントに行って原稿を受け取るついでに尋ねてみたら,町のコピー屋の中には8:00からやっているところもあるということであった。原稿をもって走って探してみると,多くのコピー屋は8:30オープンだったのだが,1軒だけ8:00から営業している店があった。値段は1枚50セントと安かったが(メンダナホテルの1/5だし,日本円で考えても約5円なわけだ),何十枚もある原稿を数部コピー中で,他に4件の預かり原稿があるので,すぐにはコピーできないよ,という返事であった。

そうなると,もうNHTRIでコピーするしかない。部屋に戻りながらFさんに電話で相談してみると,幸いオフィスにいて,OK,下の階に強力なコピー機があるから,そこでできる,と言ってくれた。運転手を差し向けるから渡してほしいということだったので,速攻で印刷が終わっていた10部のプログラムもY5と一緒にザックに詰め,部屋を出てロビーへ向かった。3分ほど待つと運転手が来てくれたので,ホテルの封筒に入れた原稿を託し,Fさんに原稿を渡したら再度戻ってきて,我々を会場まで運んでくれるように頼んだ。

ワークショップ記念写真

そんなこんなで紆余曲折あったが,戻ってきた車に乗ってワークショップ会場に着いたのは,9:00直前だった。既に受け付けは始まっているはずで,参加者も三々五々集まりだしていた。しかし,昨夜一所懸命に作られていたIDカードはどこにも見当たらないし,そもそも受付をする係の人が来ていないのだった。もっとも,NHTRIの所長であるA氏や公衆衛生局長であるT博士も既にいて,コンピュータのセッティングをしていたので,実質的にワークショップを始めるには支障はなかった。と,A氏が,スペアのプロジェクタは? というのだ。実はまだ大前先生の部屋にあったので,ホテルにあって,明日は持ってくる予定だと答えたところ,プロジェクタのケーブルが会場の後方なのでコンピュータを手元で操作できないと面倒だろうから,この部屋のではなく,そちらのプロジェクタを使ってはどうかという意見であった。確かに尤もなので,大前先生と運転手に頼んで,プロジェクタを持ってきてもらうことにした。

そうこうしているうちにコピーの束を抱えたFさんも登場し,5分ほどかけて会場にそれを配ったところで,A氏が開会宣言をしてくれた。各方面への御礼とか,会場での注意とかを言ってくれている。実にちゃんとしている。一般向けのところはちゃんとピジンで言ってくれるのも素晴らしい。会場を見渡すと,村人がちゃんと来てくれたのが嬉しかった。本当ならCS神父が来られれば最高だったが,前述の通り,新しいBishopを迎えるという事情が事情なので,そこは諦めるしかない。

次いで,ぼくがこのワークショップ開催の背景とか,主旨とか,全体のプログラムなどをざっと説明し,全員に前に集まってもらって記念写真を撮った。ここまでは,ほぼ予定通りだった。

Coffee Break

問題は,プログラム上はここで予定されていたコーヒーブレイクで口に入れられるものが,まだ届いていないことであった。実はケータリングといっても業者は車をもっていなくて,我々の借り上げている車で取りに行かねばならなかったそうだが,その車が途中でパンクしてしまったのだそうだ。何事も一筋縄ではいかないのがソロモン諸島である。急遽次の演題を先に発表してもらうことになった。公衆衛生局長T博士による研究の進め方とその公衆衛生行政へのフィードバックの仕方の話であり,WHOのSTEPSなども紹介されていて,一般の参加者(とくに村人)にはあまりピンとこなかったかもしれないが,研究者や行政官には良く整理されていて,ソロモン諸島側が何を必要としているのかがよくわかる話だった。しかし,この話が終わっても,まだコーヒーブレイクの食べ物は届かないのだった。しかも,次はVector-Borne Disease ControlのDIRECTORであるAB氏の発表の予定だったのだが,本来の予定時刻より20分ほど早くて,まだ会場に着いていないのだった。しかしたぶんGlobal Fundの関係者と思われる白人女性が,彼はいまマラリア会議に出ているところで,必ずここに来るはずだから,と言いに来た。そこで,コーヒーブレイクではないけれども5分間の休憩にしましょう,とアナウンスしようとしたところで,食べ物と飲み物が届き,コーヒーブレイクにすることができた。写真に示すように山ほどのサンドイッチと,クッキーなどと,ミロと紅茶とインスタントコーヒーが供され,思ったよりも豪華だった。

コーヒーブレイク後もまだAB氏が到着しなかったので,先に大前先生がマラリア対策の歴史とそこにおける日本の国際協力の話をされた。とくに,東南アジアとの違いの話がクリアで,会場からの質疑も活発に行われて良かった。AB氏も無事に途中で到着し,大前先生の次に,ソロモン諸島における昆虫媒介感染症対策の話として,10年前に決まった方針として普通のワードファイルを投影しながら,デング,フィラリア,マラリアへの対策の話をした。これも意外に質疑が盛り上がり,12時を若干過ぎてからランチタイムとなった。

Catering for lunch

ランチは食べきれないほど大量にあった。パックに詰めたり皿に山盛りに載せてラップをかけたりして持ち帰る人が大勢いて面白かったけれども,次回はもっと少なくていいと思った。60人分で50人出席でこれならば,40人分で十分ではないだろうか。味はそこそこであった。

午後のセッションは,婦人青少年局長による若者のための政策説明(ほとんど原稿を読み上げただけだったので,多少退屈だったけれども,わざわざ来てくれたのはありがたい。ただ,2015年までにすべての出生を登録するという話について具体的なプランを尋ねたところ,まだ理念レベルであって具体性が十分でないようだったのは残念だった)に続き,小児保健局長であるDO氏の海外との比較や近年の変化も含めた,ソロモン諸島の子供の健康状態についてのダイナミックで面白い発表がなされた。この発表は実に面白くて,一般向けに重要なところはピジンで語られたので,質疑応答も盛り上がったし,村人代表も興味深そうにしていたのが印象的だった。

次は漸く我々のタシンボコ研究の成果発表に入った。まずは山内さんが子供の成長の話をした。身長や体重でみるとUS標準の下3パーセンタイルより小さいところで推移するけれども,BMIでみると,ほぼUS標準と変わらないということと,女子で思春期に肥満気味の子が増えるというのがポイントだったと思うが,フロアからの最初の質問は身長がUS標準より小さいのは遺伝的差異だから当然で,どうしてUS標準を使うのかというものだった。答えは,もちろんソロモン諸島の健康だとわかっている子供の標準成長曲線があればそれを使うべきで,今のところそれがないので,とりあえずUS標準と比べてみただけということであった。つまり,US標準と比べると変に見えてしまうので,ソロモン諸島の標準を早急に作るべき,という行政への提言と見てもらえればいいというわけだ。

次いで,大前先生によるマラリア感染状況の推移と,低流行時に有効な検査法を探す話であった。激しく流行していた頃は子供の脾腫率も高かったが,最近のように一般住民の健診での原虫陽性割合が10%を切ってきて,かつ主要な原虫が熱帯熱から三日熱に交替してくると,脾種はほとんど見られず,迅速診断キットでも特異度は高いけれども感度が低くて問題があり,ギムザ染色したスライドでも熟練した検査者がかなり注意深く見ないとダメで,それも200視野で1個感染赤血球があるかどうかというレベルなので大変だという話であった。(我々のチームには,マラリア検査のためにギムザ染色したスライドを見ることにかけては世界でも指折りのテクニックと経験をもつ亀井先生がいらっしゃるので,正しい結果が得られているけれども,)クリニックレベルではスライド検査の信頼性も落ちてしまうので,もっと感度が高い迅速診断キットが必要になるという主旨であった。これも質疑が盛り上がった。

次にぼくが発表したのは,1995年に明らかにしたマラリア感染と蚊の吸血行動が活発な時間帯の服装との関連の話と,最近の継続調査からわかってきた,同じ村の中でも感染リスクには違いがあって,毎回のように感染者がいる家と,ほとんど感染者がいない家があるという話であった。家の作り自体はほとんど差が無いので,おそらく数十メートル単位の微視的な地理的差異であっても,その違いがもたらす影響は無視できないということだと考えられる。長崎の熱研の砂原さんがベトナムでやったモデルのように,村の一番外側にある家が一番リスクが高いというモデルで説明がつくことかもしれないが,今後一層の研究が必要だし,できるテーマだと思う。フロアからの質疑もそれなりにあった。

再びコーヒーブレイクの後,ぼくが調査地の歴史的背景と人口学的な情報として,東タシンボコ地区全体は大規模なオイルパームプランテーションの影響で人口流入が大きかったけれども,調査地であるバンバラは,1980年代から90年代にかけて出産間隔が短くなることで出生率が上昇し,クリニックや病院へのアクセス改善によって早期治療が進んだことによって死亡率が低下したための人口増加が大きかったことと,エスニックテンションで一時的に途絶えたものの,テンション終結後は人口移動が非常に活発になってきていることを喋った。ここはCS神父と共同発表にしてCS神父に歴史的なところを喋ってもらいたかったところだが,代わりにフロアにいる村人から補足してもらった。続けて山内さんに成人の体格と血圧について喋ってもらおうとしたところで17:00を過ぎたせいか会場が停電し,いったんは復活したものの非常に電源が不安定な状況になったので,この日のセッションを閉じることにした。その分,翌日の開始時刻を30分早めた。

片付けをした後は,一旦ホテルに戻って荷物を置いてから,三日連続となる上海レストランでの晩飯となった。今夜は一応DINNER PARTYなので個室を予約してある。我々日本人が着いたのは開始予定時刻の18:30を5分ほど過ぎていたが,まだ誰も来ていなかった。とりあえず20人分の料理をオーダーするため,メニューを検討してみる。まずスープはHot sour soupとSliced tomato with eggs soupの大を1つずつ頼むことにした。他のメニューもHotとかSpicyなものメインなテーブルと,そうでない普通の味メインのテーブルに分けて頼むようにしたので,多少面倒な注文になってしまったが,ちゃんと対応してくれた上海はさすがであった。後で何回目かの追加注文をしたときに多少の混乱はあったが,総じて優秀であった。

Fさんが村からのワークショップへの参加者全部に声をかけてしまったので,結局,DINNER PARTYの出席者は22人となった。予想外に多いけれども,会場をメンダナホテルとかSea Kingレストランではなくて,この上海にしたので,たぶん予算的にもそれほどひどいことにはならないだろう。それなら楽しんでしまえ,と開き直って,2時間ほどひたすら飲み食いした。チャーハンの塩気がほとんど無かったのが残念だったが,他はそれなりに美味であった。PARTYの〆の挨拶を公衆衛生局長T博士にやってもらい,まだ料理があるのでソロモン側の参加者はそれを食べ尽くしてもらうことにして,日本人4人はホテルに戻ることにした。ここの会計は当然,ぼくがポケットマネーで払うのだが,22人であれだけ飲み食いして2,398 SBDであった。日本の相場から考えたらかなり安いが,こちらの人にとってはそれなりに豪華なディナーになったと思われ,皆笑顔だったのは良かった。

ホテルに戻り,集合写真をプリンタで印刷しながら(CANONのプロフォトペーパーを持ってきていて,健診に参加した村人にも進呈したけれども印画紙に焼くのと大差ないくらいきれいに写真を印刷できるため,2日目に集合写真を配ってしまう方が参加者にとっても嬉しいだろうし,こちらも郵送などの手間が要らない)大前先生と山内さんとの3人で明日のSummary作りをしたら,23:00過ぎまでかかって疲れ果てた。学生からメールが来ていたので返事を打たねばと思いつつ,そのままベッドに倒れ込んで泥のように眠ってしまった。


【第9日目】 ワークショップ2日目終了後はブリスベンへ直行(2011年2月16日)

4:00過ぎに自然に目が覚めた。学生への返事(選択基礎医学実習の相談で,インフルエンザシミュレーションのためのRコード相談が1件と構造方程式モデリングでsemの係数推定が収束しないのをどうしたらいいのかという相談が1件)を打ち,シャワーを浴びて荷造りをした。今日はワークショップが終わったら飛行場に直行なので,8:00頃にはチェックアウトしなくてはならない。村に行ってからはメモも打てなかったので,メモ打ちもしているが,たぶん終わらないだろう。

思った通り終わらないままに8:10になったのでフロントへ行き,チェックアウトを済ませた。自分一人の3泊の代金が,昨夜のディナーパーティの総費用よりも高かったというのは,何か間違っている気がしなくもない(ホテルの値段付けが)。

ワークショップ2日目も盛況予定通り8:30にRAV4が迎えに来たのは偉かった。ホテルを出る時に若干問題が起こったが,すぐに解決したので,8:50頃に会場に着いた。もうNHTRIの人たちも村人も来ていて,他の参加者も集まり始めていた。9:00に昨日の残りの発表から始めて10:30までにすべての発表を終わらせ(最初にぼくが尿検査からわかった塩分摂取と血圧の関係,それがINTERSALT STUDYの中でどの辺りに位置づけられるのかということと,尿pHからわかることを喋り,次に山内さんが成人のBMI,血圧と年齢の話をした後で,ホニアラ市の保健局長保健省の非感染症(Non Communicable Diseases; NCD)対策部門長の代理の方が成人の健康問題として糖尿病,喫煙などの話をして,残り10分でぼくがエスニックテンションの心理社会的影響の話と,テンション終結後の再近代化の政治との関係と生活への影響の話をサクッとまとめた),総合討論に移ることができた。総合討論では会場からも活発な発言があり(まあ,なんだかんだ言ってもマラリアの話が多かったが),それをまたNHTRIの新ディレクターであるA氏がうまく捌いて話をまとめてくれたので,多くの参加者が満足して終わったように思う(自画自賛!)。

NHTRIはHealth Trainingも大きな存在目的なので,こういうワークショップを続けて行きたいそうだが,プロジェクタがないので,今回予備でもってきた(はずだったのだけれども,実際にはほとんど会場備え付けのものではなく,より明るいこちらを使っていた)プロジェクタを寄付して帰ることにしていた(そうすれば次からも使えるし)。大喜びしてもらえ,贈呈式のような感じで会場も盛り上がった。有終の美を飾ったといえようか。

なお,無事にすべての発表のプレゼンテーションが揃ったので,これを使えば英文報告書はできたも同然だ。結果がまとまったものを発表することによって地元からのフィードバックを受けることができただけでなく,成果として学振に出さなくてはいけない報告書作成が相当楽になったわけで,まさに一石二鳥。苦労した甲斐があった(2月23日追記:しかし実は学振に出す成果報告書はWordで和文で4〜6ページという厳しい制約ができてしまっていることがわかったので,英文で作ってもそのまま出すわけにはいかないのだった。Proceedingsにすれば,成果の1つには数えられるけれども,報告書は別に作らなくてはいけない)。

終了後は多くの参加者とお別れの挨拶を交わしつつ,空港に急いだ。チェックインは無事にできたが,係官が1人ずつしか処理できず,非常に待ち長かった。その後,空港に待たせておいたドライバーとRAV4とともに,ぼくだけがレンタカー屋に向かった。ガソリンをリフィルするのに500 SBD以上かかったが,返却は順調であった。再び空港に来るのはタクシーを使い,マライタ出身の運ちゃんと楽しく喋りながら着いた。80 SBDであった。

ほどなく出国審査が始まり,保安点検所もとくに問題なく通れて,飛行機もほぼ予定通りに到着し,ほぼ予定通りの時刻に離陸した。あまりにスムーズなのが気持ち悪いほどだ(っていう感覚も何か間違っている気がするが)。ブリスベンへの到着も予定通りで,入国審査でも何も問題なく(というか,申告する物がなかったので,書類をそう書いておいたら,税関と検疫はまったくノーチェックで)入国できた。あの厳しいオーストラリアとは思えない。

4人でタクシーに乗ってExplorers Innに着いたのは18:30頃だった。46ドル90セントだった。妙に心配性の運転手で,翌朝早い飛行機に乗るなら迎えに来るかい,と聞いてくるので頼んだところ,最初は6:00と言ってOKということだったのだが,引き返して来て飛行機の離陸は何時かと聞くので,8:20と答えたら,うーん,それだと6:00じゃ遅いかもしれないなあ,自分は5:30に来るから,5:45には乗った方がいいよ,というのだ。Explorers Innの受付の女性もそうですねえと言うので従うことにしたが,こんな律儀な運転手は珍しいと思う。

ちなみにExplorers Innの受付の女性は,驚いたことに日本人だった。いつも満室で予約できなかったのだが,今回うまく4室予約できたし,ここは他のホテルよりも20ドルから40ドル安くて,一泊7,000円もしないのでラッキーと思っていたが,受付が日本人だなんて,余計にラッキーだった。オージーのおっちゃんもいい人が多いんだけれども,事務手続きの細かさと正確さと素早さは日本人が世界最高だと思うので,ホテルの受付には最適なのだ。しかも今回使ったネット予約システム(Agoda)だと,印刷したバウチャーを見せたらサインするだけでチェックインできてしまい,非常に簡便であった。次もこれを使おうと思う。

Explorers Innでのネット接続は,館内無線LAN経由で有料だが,1時間5ドル,2時間10ドル,24時間15ドルという時間制であり,転送容量には制限が無い。1時間と言っても正味の接続時間の合計であって,こまめにログアウトすれば使い切ることはないと思われたので,1時間の契約にした。

そこまでやってから外に出た。金曜以外は店が早く閉まってしまうので,土産物を買うために,モールにあるColeというスーパーへ急いだが,Explorers Innは立地も良いので,5分もかからずにスーパーに着いた。空港の6割くらいの値段でチョコレートなどの土産物が買えるのが魅力だが,翌日の朝食も買うことができて一石二鳥であった。

ブリスベン中心街モールの路上レストランのカレーライスその後,最初は行きつけの路上レストランに入ろうと思ったが,混み過ぎていたし,いつもテキパキと注文を捌いてくれるアジア系の女性店員がいなかったし,狭い席で地面が濡れているところに押し込まれそうになったので,別の路上レストランに移った。メニューなどはほとんど同じだったし,味も値段もたぶん大差ないとなれば,空いている方がいいに決まっている。ステーキにも心が動いたが,メニューを見ていたら無性にカレーが食べたくなって,汗をダラダラかきながらの晩飯になった。まあ美味だったが,辛かった。

ホテルに帰ってから,まずはメール受信をしたが,これも何の問題もなくできた。100通以上あって,容量も全部で1.3 MBほどあったが,6分で受信が完了した。回線速度もなかなかだ。つくづくこの宿にできて良かったと思う。最小限の返事を打ってからシャワーを浴びて,メモ打ちを始めた。


【第10日目】 帰国(2011年2月17日)

23:00過ぎにベッドにゴロっと横たわって一休みと思ったが,気が付いたら眠りこんでいて,4:00に目が覚めた。5:45には昨日のタクシーが来ると考えると,ここで二度寝するのは危険なので,起きてしまうことにした。メール受信してみたが,返信が必要なメールはなかった。まだ通信可能時間が残っているので,ちょっとだけ常用リンク集を見てみた。柏野さんが紹介しているEsperanza Spaldingは完全にツボで,ついAmazonで注文してしまった。"Chamber Music Society"が輸入盤だと1,100円というのは安すぎる。/.Jの「あなたのパソコン,他人に見せられる?」というスレッドで,個人利用しているPC内の機密情報の隠し方が議論されているらしいのが気になったが,ここで接続時間を使い果たしたくないので一旦ログアウトした。

4:40頃,部屋に備え付けのポットで湯を沸かし,ティーバッグで紅茶を淹れてから,冷蔵庫のミルクを入れてミルクティを作ってみた。昨夜スーパーで買った"Chicken Caesar Wrap"と合わせて朝食にした。なかなかの栄養バランスだと思うし,ちょっとパサパサしていたが美味であった。やはりスーパーで買ってきたフルーツと野菜のミックスジュースもいいのだが,ティーバッグでいれたミルクティがこんなに美味に感じるとは意外だった。ミルクがいいのか,それとも単に久々なので要求水準が下がっているだけなのかわからないが,まあ自分が幸せに感じるのだからこれでいいのだろう。

あと30分ほど時間があったので,荷造りしてからメモ打ちを続けるつもりだったが,結局,歯磨きとか荷造りとかで20分が過ぎたので,メモ打ちを続けるほどの時間は無くなった。それでメール受信でもしようと思って,あと5分ほど接続時間が残っているはずの館内無線LANに接続しようとしたが,Y5の調子がおかしくなって諦めざるを得なかった。

下に降りて行くと,昨日のタクシー運転手がもう来ていて,すぐに荷物を積んでくれた。空港までもとても順調に行けて,6:10頃にはチェックインカウンターに着いた。チェックインでは,トップツアーで予約した亀井先生とぼくの席は既に通路側で取られていたし,インチョン空港での乗継ぎがちょうど1時間しかないので,こちらが何も言わなくてもSHORT CONNECTIONとかいう赤いタグを付けてくれたし……という意味でカウンターの人は有能だったのだが,発券機が故障したので隣のカウンターの人に頼んで発券してもらうしかなく,若干手間取った。それでも臨機応変に対応してくれたので,カウンターの人は素晴らしく有能だと思った。ホニアラのヘンダーソン空港がこのレベルの職員を雇えるようになるのはいつのことだろうか。山内さんはシンガポール経由で帰るので,ここで我々3人と別れて数時間待つことになるわけで,無線LANにオンラインサインアップしようとしていた。しかしサインアップできてもログインできないという最悪の可能性もあるので,先にぼくがYes Optusの接続を試してみた。結果は往路と同じで,ログイン画面は出るのだが,30分使おうとしてログインボタンをクリックすると,"Sorry this service is temporally unavailable. Please try again later."とかいうメッセージが出てきて使えないのだった。昨年9月にはとても良かったYes Optusだが,今回はダメダメだった。しかもブリスベン空港はYes Optus以外に公衆無線LANサービスが無いので,インターネット接続は諦めるしかないのだった。ぼくも当てが外れたが,これから数時間の山内さんがとても気の毒だった。

ソウルへ向かう機内では,食事が出た後に,日本映画ハナミズキを見てから,このメモ書きを再開した。ハナミズキはboy meets girlものであるのと同時に,まるでラノベのようなご都合主義展開で苦笑してしまった。コバルト文庫風と言おうか。まあでも,あれはきっと風景の美しさと新垣結衣の可憐さと向井理の格好良さを楽しむべき映画なのだろう(とかいうと,生田斗真ファンから叱られそうだが)。

仁川空港6番ゲート傍のコーヒーショップソウルでは乗継ぎ時間がほとんどなく,往路と同じくシャトルに乗って(但し空いていたが)6番ゲートに着いたのは,ちょうどボーディングが始まる時刻だった。しかしそこには美味そうなコーヒーショップがあり,ウォンも持っていたので(実は日本円も使えたらしいが),4,500ウォン(往路で外貨両替したとき,5,000円が63,000ウォンだったので,350円くらい)のカフェラテを買ってみた。それを飲みながら無線LANを試してみたら,こんな端のゲートのそばでもAirport Free Wifiが「かなり良い」状態でつながるのだった。100通以上来ていたメールをダウンロードし,1通の送信をすることができた。完璧な乗継ぎであった。

機内では短編動画のホーキングの時間旅行だったかとロックフェスを見ながら,さっきダウンロードしたメールをチェックした。オセアニア学会の庶務理事から新メーリングリストへの送信ができないという問い合わせメールが入っていたが,たぶん送信元アドレスが理事会登録アドレスではなかったのだと思う後で確認してみたら,何故か理事会MLのカスタムフィルタのチェックが外れていたのが送信されない原因だった(さらに追記:実はそれも原因ではなく,原因の切り分けをして調べて行ったところ,たぶんオセアニア学会が借りているサーバのMailManの動作がおかしくなっていると思われた)。

成田に着いたのは予定時刻より10分ほど遅く,たぶん全乗客の中でも1,2を争う早さで税関まで通り抜けられたのだが,長野まで帰り着くために乗らなくてはいけないスカイライナー52号はとっくに発車してしまった後だった。次に早く上野に着くのは21:38発のスカイライナー54号なので,それに乗った。これはスカイアクセス線経由なので,普通のスカイライナーよりも若干値段が高いが,44分で京成上野に着いてしまうのは凄い。しかしそれでも,Maxたにがわ429号に乗継ぐには8分しかないので,たぶん乗れず,高崎までの最終新幹線であるMaxたにがわ477号に乗るしかなかろう。まあ,先月札幌日帰り出張したときと同じ新幹線なので,高崎から前橋行きの両毛線には乗継げるはずで,それほど問題はない。前橋でホテルを取るか大学泊にするかが悩みどころだが,面倒なので大学泊にしようと思う。

うーん,やはり2分の差で,Maxたにがわ429号には乗れなかった。上野駅の新幹線待合室はUQのWiMAXには対応しているらしい(広告が貼ってある)のだが,通常の無線LANのアクセスポイントはないのだった。34分待ちの間は,仕方ないのでメモ打ちを進めるしかないな。

それにしても,今回は調査とワークショップの両方を10日間でやってしまうという強行スケジュールだったわけだが,無事に終わって良かった。明日からは日常に戻るわけだが,今回はあまり調査ボケしていないと思うので,気温の差を除けばとくにギャップは感じないで済むだろう。こういうのも悪くない。


Correspondence to: nminato@med.gunma-u.ac.jp.

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