2008年5月21日 中澤 港
最近メディアへの露出が増えてきた裁判員制度は,来年の今日から実施される。これは,無意味ではないかもしれないが,既に色々な人が指摘しているように,適切な法解釈や運用が素人にできるのか,裁判で判決を下す責任の重みに耐えられるのか,仕事の都合で(例えばソフトハウスの納期直前でデスマーチになっているときとか,大学などで研究費の申請の締め切り直前など不眠不休で書類を作っているときなどに)裁判所に行けなかったとしても罰金を取られる可能性が高いなど,いろいろな問題がある制度である。自分が裁判員になったことをwebに書いてはいけないけれども,裁判員になったために仕事を休むことは勤務先に自分で説明しなくてはいけないというのも変な制度だと思う。上司等がそれを公にすることは禁じられているというが,休暇取得手続きをグループウェアなどで全社員共有する企業があったら,事実上,この守秘は不可能ではなかろうか。
筆者(中澤)は,選挙人名簿からくじ引きで公平に公職を割り当てることが可能なら,裁判員よりもむしろ国会議員の方が向いた仕事だと以前から考えてきた。これまでにもメモとして何度も書いた(例えば[1], [2], [3], [4])通りである。
そもそも,裁判員制度は「司法制度改革の三つの柱」の1つとしての国民的基盤の確立の中核として導入が提言されたものだったわけで,その狙いは,
裁判員が参加することにより,裁判官,検察官,弁護人とも,まず国民にわかりやすく,迅速な裁判とするように努めることになります。また,法律の専門家が当然と思っているような基本的な事柄について,裁判員から意見や質問が出されることによって,国民が本当に知ろうと思っているのはどういう点なのかということが明らかになり,国民の理解しやすい納得のいくものになると思われます。
一言でいうと,裁判の進め方やその内容に国民の視点,感覚が反映されていくことになる結果,裁判全体に対する国民の理解が深まり,司法が,より身近なものとして信頼も一層高まることが期待されています。
というものだった(引用元)。このことが真の目的ならば,別に裁判員制度など導入しなくても,裁判を全部インターネットで公開するとか,そこまで行かなくても,傍聴者が質問してもいい(評決には参加しない)ような制度を導入するだけで十分と思われる。たぶん,真の狙いは別にあるのだろう。
さて,ちょっと考えてみれば,この文章における「裁判」は「国会」にもそのまま,あるいはそれ以上に当てはまることに気付くだろう。例えば次のような具合。
国会議員を選挙人名簿からくじ引きで選ぶことにより,官僚も国会議員自身も,国民にわかりやすく,迅速な国会議事運営とするように努めることになります。また,立法や行政の専門家が当然と思っているような基本的な事柄について,素人の国会議員から意見や質問が出される(注:官僚や内閣に対して)ことによって,国民が本当に知ろうと思っているのはどういう点なのかということが明らかになり,国民の理解しやすい納得のいくものになると思われます。
一言でいうと,国会の進め方やその内容に国民の視点,感覚が反映されていくことになる結果,国会全体に対する国民の理解が深まり,立法が,より身近なものとして信頼も一層高まることが期待されます。
もちろん,議院内閣制をとっている限り,行政が国会から独立でないので,対外的に継続性が必要な行政の仕事を考えたら,国会議員をくじ引きで(ランダムサンプリングで)選ぶのは無茶だと思う。以前にも書いたが,その点は,専門家としてのすべての国務大臣を直接選挙で選べばいい。国務大臣間で意見の対立があっても,法律を逸脱した行政はできないから大枠としては大丈夫なはずだ。改憲が必要になるという大きな壁があるんだが,それを別にすれば裁判員制度よりは余程無理がないと思うが,いかがなものだろうか。