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【第1192回】 会議(2022年10月12日)
- 6:30起床。82.85 kg。
- 水曜は会議がたくさんあることが多く、今日もその予定。
- 午前中は日本人口学会の理事会。そのフォローアップでメール送信。
- ひろゆきこと西村博之氏は、たいていの場合、注意深く自分でフレームを決めて発言するので、その範囲内の演繹的ロジックでは無敵なのだが(つまり、彼がやっているのは言論活動ではなく自分でルールを決めることができるゲームのようなものだと思う)、「普天間住民の90%以上の人は基地が出来てから移住してきた人。」だと事実です。1945年当時の人口が9千人で、現在の人口は9万人。は不用意に墓穴を掘ったなという、ツッコミどころだらけのtweet。米山隆一さんに指摘されているように自然増を無視している点と、そもそも出しているデータが不正確な点でダメなんだが、ひろゆき氏を擁護するtweetの多さに、人口学の基本の基本も知らない人がこんなにたくさんいるのか(twitterでのコメント数の絶対数を考えると、そんなにマジョリティではないのかもしれないが)と辛い気分になった(他人のゲームに口を出すのも不毛なので言及するつもりはなかったのだが、人口学の無視があまりにショックだったので、ついこうして言及している)。宜野湾市だけのものではないが、この報告書の図表6を見れば、沖縄県の人口増加は復帰直後の1972-5の4年間を除けば社会増の寄与は小さく、ほぼ自然増によることが一目瞭然だ(沖縄県人口移動報告年報 令和3年の図1を見ると、近年は自然増も減少傾向で、令和に入ってからの3年間は社会増と同程度で低下中だが)。普天間地区に米軍基地が出来た前後の人口推移を含めた状況については、総務省のウェブサイトの「宜野湾市における戦災の状況(沖縄県)」と宜野湾市観光振興協会のウェブサイトの「宜野湾の歴史」のページを見ればわかるように、米軍上陸前の1944年10月の宜野湾村の人口13,636人が元々住んでいたところ、3,600人余が戦争の犠牲者となったことや、4つの集落が接収されて飛行場が建設されたと同時に、住民は(一部は米軍上陸前に疎開したり自然洞窟などに避難したりしていたが)捕虜として中北部の収容所に移送されたりしていて、1945年10月から徐々に帰村できた住民もいたが米軍に接収された場所には帰れなかったし、割り当てられた場所に居住することを強いられた住民もいたと書かれている。もしかして、ひろゆき氏は、基地建設前の元々の住民のことは語っていなくて、村内でも別の地区への居住者とその子孫は「基地が出来てから移住してきた人」だと強弁するつもりなのだろうか? さすがにそれは無理筋で、少なくとも、子孫は「移住してきた人」ではないし、村内別地区に強制移住させられた人は、帰村した人であって元々の住民と考えるのが普通だろう。やはり墓穴を掘ったと思う。
- Nagie Laneが西宮に来る!のか。神戸大学ホームカミングデイだが、業務が無いことを祈ろう。しかし10/25の夕方以降でなるべく早く西宮まで行ってCD買うのはハードル高いなあ。
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