Latest update on 2021年7月4日 (日) at 18:43:39.
6:00起床。シャワーを浴びてから豚肉野菜炒めを作って朝食。7:30に出発し,西代から新開地,十三,河原町と乗り継いでいったまでは良かったが,鴨川沿いを歩いて行ったら京大に着いたのが開始時刻ギリギリになってしまい,京大の中で人文研4階会議室に着くまで10分ほどウロウロしてしまったので,会場に着いたときは,川口部会長が趣旨説明をしているところだった。
以下メモ。例によって自分のためにつけているだけなので,誤解やミスがあるかもしれないので,お気づきの点があればご指摘いただければ幸い。
第一報告は人文学オープンデータ共同利用センターの市野さんで,日射量でみる天保期という話。司会の藤原さんは農業史がご専門とのこと。
古気候学の研究者は少ない。方法論は,代替資料による気候復元。年輪や氷床コアなどを利用するものもあるし,歴史資料を利用する歴史気候学もある。資料としてはイベント,年・季節(御神渡りとか桜の開花とか),毎日の天気の記録など。
古日記を資料とすることもできる(他国ではあまり行われていない。日本に特徴的)。日記の天気の記録は,晴れとか雨とか簡単なモノもあれば,1日の天気の経過や風向,風速,寒暖などを記録したものもある。しかし基本的に定性データなので,データにするのに一手間かかる。翻刻,西暦への変換,地理座標,コード化,数値化など。
(例)歴史天候データベース(1661~1892年)吉村稔
物理量の推定は経験式によるものと物理式によるものがある。物理式はデータ同化・気象モデルで天気情報を同化し,全球の待機馬,気象要素を出力するという方法がとられる。現在のデータで天気と日射の関係を調べてみると(天気の良し悪しで3段階に分類),関連あり。これは電力需要予測などに広く用いられている。
天気別月別に平均日射量を推定する。東京における8月の全天日射量推定値。1720年~1902年の天気記録からの推定値(石川日記,関口日記等)ができたので,同じ方法を全国に使ってみた。1836年の推定値(1821年~1850年の平均に対する比率)を地図に表したものでみると,春先は例年より温かく,5月くらいから例年より寒く,冷夏だったことがわかる。飢饉年の日射量の季節進行を比較したところ,同じようなパタンで冷夏だった。
地域別の日射の季節進行を各年でみると,年によって進行のパタンは違っている。大麦収穫量(面積当たり)と5月の月平均全天日射量推定値は強く相関していることがわかった。相関係数0.8を超える。月平均でなく積算値とかもっと短い期間にすると,さらに相関は強くなるかも。日データの推定はできないか? 気象モデルで使われているように,観測値とモデルを組み合わせて真の値に近づける「データ同化」をする。観測値として日記などの天気記録を使う。分類した天気データから日射量を推定してモデルに投入すると気圧,気温,降水,風向風速などが得られる。東大生産研の芳村圭准教授のところで進めている。
いまは,多分野と出会い,多分野でつながることを目指している。歴史人口学も含め,歴史○○学の研究成果の相互利用を進めたい。
(☆直接降水データって日記からとれないのだろうか? 飢饉は干ばつとも関連しそうだが)
質疑:▼飢饉年の麦の作凶も見て比較したら良いのでは→今後やりたい▼庄屋の日記データを解析中で,月間雨量が効かないことはわかっているが,空梅雨などリズムの影響はわかる。日射量の場合,そういうリズムはどうなのか。田植えのタイミングの日射量とか。日射量の場合,どの程度そういうリズムは見えるのか→やりたいが,今のところ,日で推定すると誤差が大きいので月平均している。しかしリズム(寒暖パタン)は今後入れたい▼西南日本と東日本では違っていて,西南日本では雨が降るかどうかをラフに定量化することが効くのではないかという感触がある。雨かどうかだけではなく,曇りと晴れの違いは大きい▼日射量と気温などはどれくらい相関があるのか? 八王子の日記から推定された気象はどれくらいの地域を代表するのか? →日射量から夏の最高気温は推定できるが冬は相関悪い。冬は雨か雪かなどの情報を入れないと気温が推定できない。代表性は難しいので,同じ日記に書かれている気象情報と作物収量情報を分析している。▼直接日記からとった降水データ(雨か大雨か)と日射から気候モデルで出した降水データの突き合わせはこれからやるところ。
帝京大学の平野さん。元々自然地理学者。18-19世紀の歴史気候資料による気候復元の話。最近温暖化が進んでいるといっても,直接観測した気象データはたかだか140年くらいしかない。江戸時代の日記から天候記録を取りだしてデータベース化している人が各地にいる(組織化されていない)。例えば弘前のものが既にCDで販売されている。
今日は,広島の歴史天候記録による夏の気温復元の話と,天候記録から復元する歴史時代の台風のコース復元の話をする。とくに1856年安政江戸台風と1828年の九州の暴風雨(シーボルト台風が有名だが他にも多く来ていた)
梅雨明けが遅い年は冷涼・多雨なので,夏の気温と雨の日数には負の相関関係が成り立つと考えられる。
気象庁のデータで月平均日最高気温と雨日数(1 mm, 1hr以上)の相関関係の空間分布を見ると,西日本で-0.8など強い負の相関があり,東北は相関弱い。
現在のデータから関係式を出し,広島の翻刻された日記から得られた雨日数にこの式を使って月平均日最高気温の変化をみた。1830年代から40年代まで寒い時期が続いていた。観測が始まった直後も寒い時期が続いていたが,雨日数からの推定でもそれは見える。ただし,この方法の推定精度が良いのは7月と8月に限られる。
樹木の年輪から推定された夏の気温と整合的であった。しかし東北ではヤマセの影響があり,雨日数からの気温推定はできない。
台風推定の究極の目的は,台風コースの長期変動をみたいということ。まずは個々の台風について,日記の記録から台風のコースを復元できるかを試す。安政江戸台風1856年9月23-24日に江戸に大きな被害をもたらした。台風進路の東側は時計回り,西側は反時計回りに風向きが変わる。東側の方が風速が強い。日記に風向の変化が記録されていれば,台風がその場所の東側を通ったか西側を通ったかわかるはず。「新島島役所日記」には,風向きがほぼ毎日書かれている(船を出せるかどうかに効くので,風はきちんと記録されている)。「ハリス日本滞在記」はちょうどそのとき下田で書かれた。どちらも風向きが時計回りに変化していたので,安政江戸台風は伊豆半島の西側を通過した可能性が強い。各地の日記を調べると,台風のコースは,駿河湾→東京西部→埼玉中部→栃木南部→福島中通り→?(東北には資料が乏しくて相馬が一番北。仙台や八戸の日記には強い風が吹いたことは書かれているが,風向きがなかった)
2009年に国交省が想定した「東京湾大規模高潮想定」の想定台風コースは,安政江戸台風のコース,時刻と類似している。1855年に安政江戸地震があった翌年の複合災害としても参考になる(観測開始後には関東の複合災害はない)。
シーボルト台風は1828年9月17日。北部九州で高潮・暴風雨による被害が大きく,死者13000~19000人(小西さんの論文)。全半壊家屋数12万件以上と推計されている。中央気象台・海洋気象台編「日本気象史料」によると,1828年は九州を襲った台風が多かった。7月~10月で5回。他の年はせいぜい2回なので,異常に多く台風が来た年と考えられる。同年,偶々長崎の出島でオランダ人が気圧の観測をしている。ICDPで公開されている。一日3回観測している。記録上「暴風雨」となっている日は,確かに気圧も下がっている。シーボルトは気温も測っていたので(一日3回),その変化をみると,暴風雨が来た日の後に気温が下がっている。「オランダ商館長日記」と各地の日本人が書いた日記から,7月10日の台風のコースが推定できた。出島の北からまっすぐ小倉へ。7月28日の日記では風の記載が少ないので台風であったか不明。8月12日はオランダ商館長日記では反時計回りに風向きが変わっているのでそれより東側を通ったことがわかる。宮崎から博多辺りに抜けた感じ。シーボルト台風は7月10日の台風とほぼ同じルート。10月2日の台風については,日記の風の記載が多い。オランダ商館長日記もシーボルト日記も既にない日なので,観測データはないが,各地の日本人の日記から,シーボルト台風と同じようなルートを通ったことがわかった。
多くの台風が短期間に似たようなコースを何度も襲った複合災害。小西さんの論文の推定死者数もその影響かも?
今後は1828年だけではなく,九州だけでもなく(東北などにも)展開していきたい。
質疑:▼江戸時代の日記には大風とか書いてあって台風かどうか不明。シーボルト台風は確かに台風だが,他の暴風雨をどこまで台風という範疇に数えられるか。ゲーテが気圧計をヨーロッパ中で使って記録しているが,日本ではこの時期にそういうものはない。西南日本では収穫が終わっている時期なので台風というフォーカスの仕方はどうなのか→気候学的に台風かどうかを判定するには沖縄や南西諸島のデータを見なくてはならない。史料は乏しいがやってみようとしている▼オランダの植民地だった東南アジアのデータは使えないか?→あると思う。東南アジアには19世紀後半のデータがあり,それを集めるdata rescueも進んでいる。ship logデータにも気圧が記録されているので,それも使おうという動きは進んでいる。▼長崎の樺島(?)のお寺の過去帳データによると,8月9日(旧暦)だけで何十人と亡くなっていて,普通の日の数倍亡くなっているという記録がある。→被害状況の正しさ検証も含めて教えて欲しい▼気温推定の精度評価は年輪との比較でいいのか? 広島での気温復元は一応できたとして,東北に使えないのか→年輪は全然違う場所なので精度評価にはならない。出島の気象データと比べることは可能かもしれないので,いまやっている。東北の太平洋側は現在のデータでも相関悪いので使えない感じ。▼司会の方「給食の歴史」という本を書いたとき,1950年代に台風が西日本を多数襲ったとき,給食の調理場は被災者救援のセンターとして機能したことを書いた。調理員さんの記録を見ると進路もわかる。現在我々は天気図から台風の進路をみることに慣れすぎているが,江戸時代にはそういう学知はなかったはずで,当時の人々が台風の何を捉えようとして気象観測をしていたのか。→医学との関係もあったであろう。ヘボンも雨量を測っていたが,未開の日本のデータを本国に送るだけでも価値があったでのはないか。たぶん出島の人は台風を知るために気象観測していたわけではない。当時の人々が予想しようとしたかはわからない。→歴史学が時間をどう捉えるかがいま問題になっているので,経験が次の災害への対処に影響するというのは面白いところ
部会長の川口さん。18-19世紀の会津郡高野組における天候・作況・農業・人口。配布された表1 天明3年の天気と農作業,が凄いが,それ以上にスライドで示された天明の飢饉を示していると想定される(本当にそうかどうかはわからない)絵図から,当時の実際の状況はどうだったのか? という導入。
25年探してやっと見つけた資料。人口,作毛位付帳(奥会津博物館架蔵)からの1759年から1916年の作況,米価変動と地域差などがわかる。
南山御蔵入領は分割されなかった。全体の人口は17世紀は増加,そこから1840年頃まで減ってそこから微増。女性が少なく性比が120を超えるなどバランス悪かった。飢饉で人口は減ったが性比は改善してきた(男性が余計に死んだ)。
食べ物はどうだったか。明治中期の庶民の主食を解明することは難しい。「民度区画調上申帳」によると,南会津郡で上層は東部も西部も米飯。中層は東部は米に粟または根菜,下層は麦粟など雑炊。飢饉が進むと米が値上がり。金一分で買える米がどんどん減っていった。会津は安く白河は高いという地域差があった。しかし会津でも江戸や宇都宮よりずっと高い(倍以上)。資料は「細い日記」「田島町史」。
表1からすると,この地域の人たちがタバコをたくさん植えていたことがわかる。たばこうへ~たばこかき。そのことで,現金収入は得られるようになったが,主食であった粟,ヒエなどの作付面積が減った。
標高差の影響大。データの欠落もある。男性の欠落が多い。
▼発表が押したので質疑は短かかった。▼稲の品種は?→わからないところが多い。多様化していることはわかる。どの水田でどの品種? というのは日記からの復元は不可能▼米の出来高と死亡率は必ずしも連動していない。米やたばこのような現金作物を作るために粟などの農民が食べるものを作らせてもらえなくなったからというような理解で良いか?→そこまで解釈できていない。粟などの収穫前に高所では霜が降りて全滅みたいなこともあったが,不作の時でもまったく米がなくなったわけでもない。あるところにはある。米備蓄を放出して救ったという話も。→飢饉のときにたくさん死んだ男性は普段何を食べていたのか?
黒須さん。18-19世紀の飢饉・短期経済変動と二本松藩の人口。歴史人口データを使って社会学的アプローチをしている。速水先生が麗澤大学に寄贈されたデータを利用。デジタル化は現在進行中。
1708年から1870年まで続く人別改帳を元にした「多世代パネルデータ」。社会的・地理的移動とライフコース研究。何が出生や死亡に影響するのか。飢饉年と平常年における死亡・移動パタンの比較。町場と農村の比較。Eurasia Project Modelの応用として,飢饉の影響と短期経済的ストレス(米価)がだののライフコースにおける死亡リスクに与える影響のイベントヒストリー分析。飢饉の影響がある人とない人がいる。課題は,飢饉や災害や疫病を数値化できるのか? 短期経済影響として会津の米価で良いのか? 統計的アプローチを使うためにデータをaggregateすることで犠牲になるlocalityの問題
研究の背景はcrisisに対する人口学的レスポンスの研究。難しい。Kingsley Davisが昔言ったmultiphasic responseの実証は進んでいない。Eurasiaプロジェクトは1995年から5年間,速水先生代表でやったことから。イベントヒストリー分析をした。西洋では教区簿冊からのデータ。MIT Pressから本になって出ている。日本は会津米価。中国では大豆価格。ヨーロッパではバターの価格と死亡率に関連があったり。穀物価格と人口行動や生活水準と関連するのか。穀物価格が上がると死亡は増え出生は減る。が,日本ではそれが見られない。結婚は穀物価格が上がると減る(これはどこの国でも)。ただし日本では3年後の結婚に大きな影響。飢饉のスパイクは見えるが,飢饉でないときも米価が上がっている年はある。
天明の飢饉。寒かった年の大凶作。1784年の疫病流行
天保の飢饉。天保4~5年。疫病流行もあった。貧民申立帳のようなものも随分作られている。
しかし何年から何年までを天明天保としたら良いかははっきりしない。多世代パネルデータとしてXavier Data(速水先生が命名した。ザビエルが来日したおかげで記録されるようになったから)。人別帳から得られる情報として性別,年齢,続柄,人口動態イベント,世帯持ち高など,きわめて詳細な質の高いデータが得られる。
郡山上町(安積郡,人口約3000)と周辺農村。大飢饉の影響と政策転換として,赤子養育仕法など。1840年からは人口増へと転換し,それまでとまったく様相が異なる。人口で見ると周辺(下守屋,仁井田)は1840年までずっと減る。郡山は回復早く一人勝ち。町村別死亡率・移出率・欠落率を,平常年と天明,天保1,天保2と分けた。死亡率はヨーロッパの大飢饉ほど酷くない。天明は欠落が多いので逃散が多かったらしい。普通死亡率と会津米価の変動を並べてみてもよくわからない。数で見ると死亡数は増えている。月別死亡率(閏年処理や申春とかをどこに入れるか未定)をみると,天保6年の3月と7月にピーク。移出数はとくに天保が増えているわけではないが,欠落(逃散)は天保年間に増えている。郡山周辺からどこに出たかという行き先もわかっているのが凄いデータ。まだ十分には分析できていない。天明と天保で距離が違うのではないかという感触はある。
死亡について,郡山上町と下守屋・仁井田村で比較。生命表と離散時間のイベントヒストリー分析(説明変数を米価などとしたコックス回帰?)。生命表をみると,農村の方が町場より平均余命が長い。飢饉年には5歳未満と高齢者の死亡が平常年よりボコッと上がっている。天保後半は前半より上がり方が激しい。その年の米価,1年前の米価,2年前の米価は? と見ると,下守屋の子供と高齢男性は当該年と1年前の米価の影響を受けている。郡山の中年男性は2年前米価の影響も受けている。天保後半になって子供の死亡率が上がる(2倍以上。疫病のせい。赤痢という説はある)。高齢男性は天保前半,高齢女性は天保後半に影響がでる。それらを調整したときも米価の影響は成人男性には出る。農村は意外に米価の影響は出てこない。competing riskとしての移動をまだ十分に分析していない。
(☆イベントヒストリー分析の中身がよくわからないが,ユニットを個人としたコックス回帰だとすると,比例ハザード性の確認はしたのだろうか? 米価は同じ値を入れたのだろうか? ベースラインハザード自体が階層によって違っている可能性は?)
質疑:▼チェコで例外の時の不作を調べたデータは,播種に対してどれだけとれたか。しかし位付帳は取れ高なのが違和感。年貢目的だから。米価の持つ意味が町場と農村で違うし人によって違うのでは?▼貧民申上帳を下守屋で80軒中60軒が出していたということだが,出すと援助がもらえるなら本当に貧困でなくても出す可能性があるので要注意。米価が農村に影響少ないのは,農村は米を買わないのではないか? とくに飢饉の時。農村で米価上昇が他のモノの値段への影響が少ないのでは?▼お貼り紙値段と末端消費価格はまったく違うので,ここでいう米価は何か?→お貼り紙値段。短期経済的ストレスを表す指標として探したもの。マーケットプライスとしての米価ではない。
元名古屋大学の溝口先生による,東北地方の寺院「過去帳」からみた18-19世紀の死亡危機。これまで地理学で環境史の研究と,ネパール・インド・バングラデシュの定期市の変遷を研究してきた。20世紀の話も東北以外の話も含む。
過去帳閲覧については,米代川流域のお寺さんに手紙を送って協力を得た。2カ所ほど断られたが,戒名や人名を使わないと説明するとだいたいOKが得られた。川沿いにデータを得たのは,疫病伝播も川沿いに進むのではないかと想定したため。
災害に対して従来十分に活用されてこなかった資料として過去帳と日記がある。偶然の出会いで過去帳を見せて貰ったことから,溝口常俊「近世因島の過去帳」名古屋大学附属図書館年報第6号,2007,1-20が書けた。その後,メディアでプライバシー関連でクレームがついたことから利用が厳しくなったので,その後も分析はいろいろやっているが,論文になったのはこれしかない。
海難事故犠牲者が多かったことが戒名の分析で明らかになった。1850年代半ばから子供の死者が激減しているのを種痘の効果と考えた(が,その後の研究で,戦前までは各地で子供の死者が多い年が多々あったこともわかっている)。名古屋近辺でも過去帳の分析を始めたら,1959年の伊勢湾台風の影響をみなくてはということになり,最近は20世紀までみている。
先行研究はいくつかある。過去帳研究の弱点としては,村別死亡率が出せないこと,寺院の檀家数の推移が正確に把握できないことがある。利点は,長期にわたる死亡数の推移がわかること,0歳の死者もわかること(寺院,年代による),複数の寺院記録の比較から危機年の全国性局地性がわかることがあげられる。地理学の強みとして,住職と話しながら過去帳を分析することで初めてわかることもある。
東北地方の対象寺院は9ヶ寺。文久2年にコレラと麻疹が大流行している。閏8月から2~3ヶ月に集中して全国的に流行。スペイン風邪もやはり2~3ヶ月に集中。逆に,過去帳データから死亡が2~3ヶ月に集中して増えていたら疫病の可能性があるといえるかも。(☆それは集落の規模や感染症の基本パラメータによって違うんでは?)普通,過去帳に死因は書かれていないが,ある寺で,明治19年の8月,9月の死者15人に「流行虎列刺病ニテ死ス」と記されていたこともあり,コレラを集中的に調べた。1936年のダム決壊による死者とか,地震や津波の死者も多いが,それ以上に天明・天保の飢饉による死者は多い。第二次大戦の死者は「居士」が多い。死者多数年の月別死者数を見ると,地震・津波はその月の死者が多いが,飢饉では分散する。飢饉+伝染病。グラフを書くだけでもいろいろわかる。
浜名湖でお寺の話を聞いたら昭和17年に多数の死者が出た事件への言及。アサリ水銀事件。現地で話を聞かなければわからなかった。関東大震災の影響も出ている。
長崎県樺島のお寺では,原爆が落ちたところから30km離れているのに,8月9日に老若男女問わず多数の死者が出ている。文久2年のコレラ・麻疹の影響や,スペイン風邪の影響も見られる。
危機年に絞らず,月別地域別に分析してみると,平年でも危機事象が局地的に起こっていることも影響あり。今後は過去帳閲覧先古寺巡礼88カ所を目標。
バングラ調査から,江戸時代の生活を体感できる。女性が外出はしないが屋敷地でよく働く。中に入らないとわからない。近世日本も同じだったのでは?
質疑:▼熱帯は一日の中の気象変化が大きいので,温帯と違う。一日単位の気象から日射を推定するという方法論が使えない→その通り。2時間だけ大雨とか多々ある。▼過去帳で女性だけ多いものはある?→とくに無かった。ただし女児だけたくさん死んでいる寺はあった。嬰児殺し?▼人別帳と付き合わせて分析できる寺はないか? 離れたところの住民が亡くなった場合は?→ある。弔ってから出身地に返すことにしている寺がある。 危機年を1.5から2倍の死亡とすることはトートロジーでは?→とりあえずの分類。→バングラでは洪水後暫く経ってから死者増。物価上昇によりものが買えなくなることと,環境衛生悪化,感染症流行による。▼フィールドワークは+αではなく,本質的であろう。歴史学でも本当は重要なはず→総合討論で。スペイン風邪のデータがはっきり見えたこと,ローカルに見ると公害の影響が見えたこと,水子がわかること,が印象に残った。▼localityとaggregateの話で,寺院には大勢が参るところもあれば,漁村の禅宗系だと全然違うとか,過去帳の意味が寺院のタイプ(宗派や地域密着度など)によって違うのでは?→宗派の違いは,死者は寺院を選ばないので,あまりないように思う,とのこと。もう1つ。都市と農村という風に単純にわけるのはまずい。都市にはスラムもあれば路上生活者もいる。
まずは指定討論3人。
池本さん。経済史の立場から。江戸時代の地主制を調査してきた。日記を見かける機会は多く,天気の記述をみて何かに使えるだろうと思っていたが,そのままだったので,午前中の発表は参考になった。午後の3報告についてコメント。川口先生の発表は天明飢饉について気候や食料か価格まで目配りしているのが良かった。組全体の檀家としている寺の調査であったのが良かった。質問として,(1)過去帳の写真を途中で出していたのを見たところ,浄土真宗系の檀家の戒名のようだったが,年齢はどのように判断したのか? 宗門改をみればわかるとしても,今日の報告ではどうしたのか? (2)天明飢饉における死因は? 天明4年の7月8月が農作業のピークではなさそうだし天明3年の大凶作の影響が翌年の夏に出るという理由も不明。悪食に起因する罹病? 木地師の餓死? (3)収穫量が食糧事情の悪化に影響すると思われるが,収穫から公租を差し引いた分が手元に残るので,公租の推移はどうか? 黒須先生の発表については同一藩領内の狭い範囲での地域差であったこと,移出なども興味深かった。質問2点(1)天明,天保どちらが大影響?(2)食料価格の推移と死亡の関連をみる際に,食料を購入している人の割合は? 溝口先生の話は驚き。過去帳で人数が小さいときの代表性はどう考えるべきか?
佐藤さん。気候と人口(死亡)の中間項としての「リスク回避戦略」「食料備蓄」「性比」に関連して。狩猟採集社会の機構と備蓄(Binford, 2001; 佐藤, 2017)。備蓄する狩猟採集民と主要食糧を長期備蓄に頼る狩猟採集民の分布が緯度できれいに分かれる(だいたい35度くらいのところより高緯度は備蓄する)。世界の分布を見ると,日本列島は備蓄する社会と備蓄しない社会の境界線あたりに位置する。飢饉のない熱帯の焼畑社会。エチオピア低地森林で焼畑を行うマジャンギルは,多作物・多品種で,一年中何らかの収穫があるので備蓄を必要としない。アンデス高地もジャガイモの原産地だが多品種あるのでアイルランドの単一品種が病害でやられて飢饉に陥ったようなことはない。リスク回避戦略。バックアップとして,森の中の普段は食べないけれど食べられる野生動植物もある。リスク回避としての種の多様性と市場経済の問題は『耕作口伝書』(弘前藩,1698)にも見られる。冷害に弱いが高収量「岩が稲」栽培が拡大したが元禄の凶作により飢饉が起こったため,「岩が稲」作付け禁止に。『耕作噺』は同様。『会津農書』『会津歌農書』は,里田では高収量晩稲が良いと書いている。高収量品種拡大とリスク増大の綱引きと思われる。18世紀市場経済浸透とともに農民がリスクを取るインセンティブが生まれ,そこで失敗して起こるのが飢饉では。一定時間が経つと忘れてしまう。川口先生の話は,タバコと自給作物のトレードオフ? 『会津農書』は麦との二毛作を奨励している。(☆二毛作はリスクヘッジになるか?)飢饉時の備蓄食料は,天保の凶作時には,大麦小麦で半分以上。しかし備蓄量が一人当たり0.5石未満の貧しい農家もかなり多いので分布が大事。→会津山村は食糧自給なんて全く考えていなかった,という川口さんから返事。性比の偏りは東北と九州で多く,格差拡大に影響したかも。現代農業は災害リスクへの脆弱性が拡大している。
増田さん。気候と人口の研究の共通言語を考える。気候学者として。人の経験/観測データはローカルだが,物理法則に基づいて強い主張ができる対象はグローバル。つまり,気候学のモデルを適用できる対象であるためには,県くらいの規模にaggregateした情報が欲しい。気候と気候変化は別。氷期・間氷期に比べると,歴史時代の気候変化は微妙。むしろ空間的コントラスト(鬼頭による「温量指数」の地域間比較)と,極端現象が人間社会に与える影響は見ることができる。気候もその影響も不均一(空間的に)。慢性的現象について気候から人口へのあり得る因果関係としてモデルを立ててみたが,それを適用できるデータはマクロなので,県規模のaggregate dataが欲しい。急性的現象については難しい。
時系列の話をしたら良かった。県レベルの話はわかるが,やませなどローカルな話に気候の方から迫ることもすべきと思う。階層はモデルに入れているが6月の人口学会ではそこをもう少し説明する。
全員が時間延長したのでフロア討論はなしで,報告者からの応答コメント一言ずつ。村山先生から閉会の挨拶として環境史研究会の話で幕。自分の専門とは離れているが面白い部会だった。
今出川イーサンで懇親会後,帰宅したら22:00過ぎだった。
途中,SportsNaviをチェックしたら,ドラゴンズはイーグルスに連勝で,アルモンテ選手のタイムリーの後に高橋周平選手のホームランで合計4得点の集中的な攻撃ができたのは良かった。最終回に亀澤選手のエラーで迎えたピンチから1点差に詰め寄られたが後続を絶って勝ちきった鈴木博志投手もクローザーとして十分な仕事をしたといえよう。やはり今年ドラゴンズは強いのではなかろうか。
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