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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『終わりなき日常を生きろ』

書名出版社
終わりなき日常を生きろちくま文庫
著者出版年
宮台 真司1998



Jan 20 (wed), 1999, 03:19

YAMAZAKI Seiji <w3.dourakumono.or.jp>

近年話題の「ブルセラ社会学者・宮台真司」が、オウム事件をきっかけに
「実質1週間しかなかった」執筆期間で作られた本である。

オウムに関する当時の言説をことごとく論破し、
”複雑なシステムを生きる私たちには、ロジカルに思考すれば
するほど何が良きことで何が悪しきことなのか自明でなくなる。”
とする著者は、オウムの発生を
”枢軸圏”で起こった、近代によって喪失した共同体の代替としての
「第三帝国」「大東亜共栄圏」といった崇高なる幻想的共同体と同じ
ものであるとした。

その上で2つの終末観「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」
を提示する。
「終わらない日常」とは、「うる星やつら」であり、ブルセラであり、
つまり今モテないやつは永遠にモテなくて、ダサいものは永遠にダサい
ままである、目に見える社会的不平等は解消されるのだろうけど、
それが逆に個人のスキルに還元されてしまうところの目に見えない
社会的不平等は決して解消されるどころか拡大していくような
そういう社会がずっと続いてしまうことを意味する。
それに対する「核戦争後の共同性」は、「AKIRA」であり、
「風の谷のナウシカ」であり、阪神大震災の時のボランティアである。
すべてがご破算になった後、廃墟の中で団結や共同性が復活し、
再び世界の中で自分のいる意味が、善悪非理が自明のものとして
見いだせる世界である。
つまり、前者を信じる者は、もうこの先この世の中がすっかり
ご破算になるような変革、「輝かしい未来」はないのだから、
今の世の中に、自分を”あまり変形させず”に適応出来る場所を
見つけて、「まったり」と生きる。。。
見栄を張ったり格好つけたりする競争から降りて
自分らしく生きる事を願うのである。
対して後者を信じる者は、そんな前者にいらだちを感じて
「ブルセラだ、デートクラブだと言ったって、東京大震災が起これば
みんな改心するに違いないんだ」(ある警察幹部が著者に語った言葉)
と言い放つ。そして、ある者は我が身の栄達「輝かしき自分」を目指し
受験戦争に、出世競争に身をやつす。ある者はこの世の中に
「輝かしき未来」を出現させるために政治活動に走り、あるいは
宗教に走る。
そして著者は前者の後者に対する勝利であるとともに、その敗北を
目前にした後者が実力で後者を実現させようとしたのがオウムで
あると断じている。

なぜ理系の高学歴保持者がオウムに入信したか、をうまく説明
している文章を以下に引用する。

>当時SFは、科学を「輝かしいもの」として描いていた。
>星間飛行やタイムマシンや宇宙戦争。
>科学の発達につれて私たちは「輝かしき非日常」に一歩一歩近づく
>---みんながそう思った。
>ところが今や、「科学者」は死語だ。
>生物学者や社会学者はいても「科学者」はいない。
>科学は輝かしさを失い、科学者は死んだ。
>大学院に進学しても、教授の鞄持ちで苦節10年、
>オーバードクターで挙げ句の果ては塾講師。
>民間に就職しても、縦割りになったシステムの中で
>全体を見通しがたい業務に携わる。
>「終わらない日常」は科学をも飲み込んだのである。
>そんなとき、思いもかけないメッセージがおとずれる。
>「いや、科学はやはり輝かしい。なぜなら科学は救済に役立つ
>のだから。救済は、科学なくして不可能なのだから」。

こうして、「終わりなき日常」に打ちのめされてしまった者に
「核(化学)戦争後の共同性」という「輝かしい未来」を携えて
やってきたのが麻原彰晃であった。

しかし、そこで注入される「共同性」が、結局のところ実現して
しまったとしたら個々の存在を苦しめる(今とは違う形の)
「終わりなき日常」が待っているのである。
「共同性(共同体)」を作るために核を、化学兵器を使えば、傷つく人も
また出てくる。その挙げ句、また同じような「終わりなき日常」が出現
してしまうというのならば、もうそんな輪廻は断ち切ってしまおう。
そのためには、「終わりなき日常を生きる知恵」を身につけること。
これこそが大事であり、サリンで死なないために私たちが今すぐに
やらねばならないことだとする。

がんばっても、教授になれるかどうかはわからない。
第一、かつてあったような輝かしい未来の導き手としての科学者に
なれっこないという事が現実だと認識する事。
それこそが「終わりなき日常を生きる」スキルである、と
かつて「科学者」になりたかった著者は述べている。

しかし、ここで著者は「ブルセラ女子高生は決してサリンは撒かない」
と断定しているが、これには疑問符がついてしまう。
確固とした善悪の判断などつかないという彼女らは、逆に著者が得意とする
「マインド・コントロール」の格好の餌食ではないだろうか。
実際著者はそういう彼女たちを「口説いて」廻ってフィールドワーク
してきたわけであり、
その延長線上で「ちょっとこいつ、地下鉄の車内でばらまいてきて」
とサリンを渡されたとき、彼女たちがそれを拒むとはとうてい考えられない。

周りの雰囲気に呑まれてしまうということでは、実はブルセラ女子高生だって
変わりはない事は、「友達がやっているから、大丈夫だと思って」
サラ金から金を借りて怪しげな投資話にお金を出してしまう(当然の事ながら
投資を受けた人間は雲隠れ、あとに莫大な借金が残る)なんてことを
しでかしているのをみればわかるとおもうのだが。。。。

ともかく、現代社会にたいして、ある種の状況分析に基づいて
「どんな生き方をする人間がキツく、ラクなのか」を社会学的に
言い当てたこの本が、文庫化されて広く読まれる事は喜ばしいことである。

   天婦羅★三杯酢(templa_3@dourakumono.or.jp/@mix.ne.jp)


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