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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『カノン』

書名出版社
カノン文春文庫
著者出版年
篠田節子1999(単行書は1996年)



Apr 12 (mon), 1999, 11:21

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

篠田節子の作品をを読むのは「夏の災厄」に続いて,まだ2作目なのだが,この人の引き出しの奥行きには感心する。この「カノン」は,音楽小説である。いや,そういうジャンルがあるのかどうかしらないが,音楽に絡め取られた登場人物たちの生と死を描くことを通して,音楽という現象の本質を描き出すものになっている。カバーには「異色ホラー長編」とあるが,あまりホラーという気はしない(怖さという意味ではあまり怖くない)。また一方で,音楽に限らず,道を極めるという営為のもつ厳しさと夢を描くことにもなっている。表現上のレトリックとして非現実的な描写も出てくるので,拒絶反応を起こす読者もいるかもしれないが,心象風景と思えばよいのだし,たぶん著者の意図も,才能があったにもかかわらず死を選ぶしかなかった香西康臣が編曲し演奏した「バッハのカノン」が引き起こす超常現象をクローズアップすることにではなく,誰でもがもてるわけではない才能をもちながらそれを殺して日常に埋没している音楽教師,小牧瑞穂の手に再びチェロをとらせる,あるいは取ることを決意させるための引き金としての強烈なメッセージが必要だったという点にあり,その強烈さを強調するために超常的描写になったのだと思う。

「カノン」が優れているのは,テーマ性だけではなく,力強さと繊細さを併せもった描写を見逃すことはできない。たとえば,少し長いが瑞穂が奥穂高の光景に接したときの描写を引用しよう。

 「ほら」と声がした。オレンジ色の靴下から目を上げる。
 視界が開けた。尾根に出ている。
 岩だ。どこもかしこも赤茶けた岩だった。咲き乱れる高山植物の花々も,ハイマツの緑もない。岩と空以外,何もない。
 吹きすさぶ風が頬を打つ。藍を流したかと思われるほど深い色の空。その空を突き破るような勢いでそそり立つ岩峰。足元の尖った岩。
 自然という優しい響きからかけ離れた,拒絶的な風景。岩と風の織りなす峻厳な美。
 瑞穂は微動だにせず,立ち尽くしていた。
 耳の奥でカノンが鳴った。震えが走った。
 目の前の光景,それは穂高岳ではない。山でもない。その造形的ライン,その量感,その急峻な角度,そのリズム,その色彩,普遍的で抽象的な完璧な美があった。
 長い間探していたものをそこに見た。

なんと豊穣なイメージだろう。頭の中に否応なしに描かれてしまう,この描写力に接するだけでも,篠田節子作品を読む価値は十分にあると思うのである。テーマとともに,一文一文を舐めるように丁寧に読むという味わい方も可能であり,お薦めしたい。


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