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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『日本人のしつけは衰退したか』

書名出版社
日本人のしつけは衰退したか講談社現代新書
著者出版年
広田 照幸1999



Jun 06 (sun), 1999, 15:17

天婦羅★三杯酢 <w3.dourakumono.or.jp>

『・・・過ぎ去った「昔」はいつもセピア色の美しさに彩られている。一方「今」に対しては、われわれはいつも目の前のささいなできごとに目が向き、大局を見失ってしまいがちである。』
昨今の教育・しつけに関わる報道から、我々は「昔と比べて、今の教育(しつけ)はなっとらん」というイメージを持つことが多いが、果たしてそのイメージは本当に正しいのか?ということを突き詰めて考えさせる本です。
また、それとならんで、現代の教育問題がどのように形成されてきたのかを、教育をとりまく様々な環境(職業構造、村落共同体、家族問題)の変化を考慮しながら考察もしています。
特に、今までの「日本(人)論」で見落とされていた「社会階層」「地域」の多様性に着目したことは特筆に値することです。この日本社会に住む人を、均質な「日本人」というひとくくりにして、そこで出てくる少数のサンプルから日本人全体を推し量ってしまうという独りよがりな論ではなく、実際にそれをしている・言っている人は、その当時の社会のどのようなポジションを占めているのかを考慮して論を立てています。
また、学校・家庭・地域(社会)という3者の「実際」の関係も、それぞれの歴史を追いながら考察しています。しばしば「家庭と学校とは協力し合う関係であるべきだ」「地域は教育力を持つべきだ」という「べき論」が幅を利かせ、論者の立場によってあるものに肩入れし他にそのやり方を強制したがってしまうことが他の論では多くありましたが、ここではいったんそれらを分けて、なるべく事実を追いながら考えています。

そして、論が始まると、かつて日本を覆っていた村落共同体でのしつけは、家庭ではほとんど行われず、村落共同体そのものが多くを担っていたと論じます。「昔は家庭でのしつけが厳しかった」というイメージとは裏腹に、「親からは特別にしつけられた覚えはなく、部落や若衆組でやかましく言われた」という老人がほとんどだったと、資料を基にこう結論つけます。実際、村落共同体では、その意志と離れて「我が子だけは上級学校にやろう」「我が子を医者にしよう」などという「家庭のしつけ」は若干の例外を除いて許されなかったのです。また、村落での暮らしは、一部の上層階層を除いては苦しく、子供の教育やしつけなどを考える余裕もなかったといえます。もしその当時、『ろくに野良仕事もしないで子供のしつけや教育に時間をかける嫁がいたら、村中の笑い物になっていたはず』でしょう。子供や老人に、幼い子供の子守をさせるというのは、それによってその子供に「親になる練習をさせている」とか、「おじいちゃんおばあちゃんの知恵を伝授する」とかいう目的があってさせているわけではなく、ただ単に「野良仕事が出来ないやつに、面倒だけど稼ぎにならない仕事を押しつけた」だけで、その結果として子供に小さな子供の面倒を見る力が付いた、あるいは口述伝承が残ったということだとしています。
しつけとしては、むしろ一人前の労働力になるための「労働のしつけ」が重視されていて、食事の前に手を洗わなくてもしかられなかったが、鍬をきれいにしなければこっぴどくしかられたものだといいます。
では、そのような「村のしつけ」はよかったのか?親がしつけなくても、村落共同体がしつければいいわけだし、そうやってしつけた結果がよければそれでいいじゃないかという、一部では支持の根強い論に対しては、村の教育は次のような側面を持っていたとして、過度に理想化する事を戒めています。
1.差別や抑圧をストレートに是認していた。
2.意識的な配慮がないゆえ、しばしば望ましくない結果を生むことがあった。
(迷信や因習の無批判な伝授、夜這い・賭博・飲酒などを知ること)
3.労働による教育は、雇う側に「教育する」という意図がほとんどないため、酷使・虐待が横行し、かえってダメにした例が数多い。
4.家族や共同体からはみ出した子供に対してはただ排除するだけであった。
5.村の教育は、その村の中だけでしか通用しない。(ローカル・ルール)
そのため、よそものに対して冷たい視線を浴びせ、集団の外に出ると萎縮して同調するか、開き直って無遠慮に振る舞ったりした。『どこへ行ってもちゃんとふるまえる』ようにするためのしつけではなかった。

また、都市に関しては、そもそも下層階層においては、「家庭」とか「家族」という単位さえ確立してなかった(明治23年の調査で、貧しい子供の100人中、親が婚姻外関係で戸籍さえ存在しない子供が23人いた)のですから、「家庭教育」という題目すら立たなかったのが現実でした。

しかし、やがて都市を中心に、伝統的な社会にはいなかった、裕福で教養のある、専門職・官吏・俸給生活者などによる「新中間層」が出現するとともに、「子供の教育は親の責任」というイデオロギーが社会を徐々に覆うようになってきました。そこでは、学歴を高めて将来の生活を保障しよう(『学歴主義』)というだけではなく、子供は子供らしくのびのび育てよう(『童心主義』)、子供のうちから社会のルールを身につけさせよう(『厳格主義』)という3つの主張が、濃淡、混じり合い、反発しあいながら述べられていきます。それらは結局のところ、「子供らしいけど礼儀正しく、学力優秀」な「パーフェクト・チャイルド」を目指すイデオロギーでした。そして、パーフェクト・チャイルドを育てるのは親の責任なのですから、今度は親のためのマニュアルや、提言が出てきて、社会は母親に対して「パーフェクト・マザー」になることを要求し始めたのです。ここに、今日まで至る教育論のかまびすしさの原型を見る思いです。

では、いったいどのような変容があって、教育は今のようになったのか・・・
興味のある方は、本書を読んで下さい。

ともかく、マスコミなどで一部「文化人」が騒ぐほど、昔の教育がいいわけでもなんでもなく、大事なことは、昔から今まで、いろんな教育やしつけがなされていたけど、その結果として問題を起こしたのは少数でしかない。「完璧な子供(親)」などそうそういないのだから、子供の小さなプラスを大事にしながら、親子の自信にしていくことがが大事ではないか・・『わが子とはいえ、しょせんは他人である。その他人と人生をともにすることになり、格別なふれあいの瞬間をもつことができたという喜びこそ、親としての醍醐味ということになるのかもしれない』著者はこう結論づけています。

悲観論に陥って、変な**至上主義に凝り固まりそうになってしまいそうな人に、是非お勧めしたい一冊です。

      天婦羅★三杯酢


Jun 07 (mon), 1999, 11:00

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

すばらしい書評をありがとうございます。
これは買って読んでみます。


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