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書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『なわばりの文化史 海・山・川の資源と民俗社会』

書名出版社
なわばりの文化史 海・山・川の資源と民俗社会小学館ライブラリー123
著者出版年
秋道智彌1999(単行書は1995)



Sep 08 (wed), 1999, 10:52

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

生物社会,人間社会における「なわばり」の成立とその意義に触れ,民俗社会におけるなわばりとその管理の実例を,これでもかこれでもかと詰め込んだ本である。とくに前半は日本の伝統的な入会いとかいった話が丁寧に紹介されているので,わかりやすい。

後半では,ハーディンがいうところの「共有地の悲劇」による資源の枯渇・環境悪化を回避するにはどうしたらよいかという思索が展開される。伝統的管理の価値を強調する一方,国や宗教による資源管理の押しつけ「規制」の危険さも指摘している点が注目される。

「国や宗教団体から発せられる資源保護のメッセージが近代科学一辺倒の紋切型のものであったり,盲信的な宗教イデオロギーにもとづくものであるのなら,住民や地域の側にそれを受け止める素地は何もないとしかいいようがない。かえってそうした施策や考え方が,資源を破壊することにもなるということがようやくわかってきたからでもある。近代的な資源管理や自然保護の思想が悪であるというのではけっしてない。民俗的な資源管理の慣行や思想を無視しては,せっかくの科学的な試みが生きてこない。民俗の思想をとり入れながらすすめるのが最善であるということをいいたい。それでは,近代的ななかに民俗的な観念をも包含した自然観とは,いったいどのようなものであるのだろうか。そして具体的な管理の方法にどのように反映させてゆくことができるのだろうか。私なりのこたえとして,漂着物への観念が一つのヒントになった。」

著者は上の文に続けて,漂着物は本来誰の物でもないので,いったん海岸についた時点でその海岸を支配したり所有する人々や第一発見者がその漂着物を所有するという慣行がある一方,漂着物にさわったり,利用することを禁止することがあった,という事例を紹介する。さらに,この禁忌が,漂着物が海の神や海の霊,さらには異郷の神がみを具現すると考えられている場合に顕著だった場合が多いことを挙げて,

「たまたま浜に流れ着いただけの資源にたいして,人間がなんの躊躇もなく支配権や共同体的な占有権を主張し,争いや相論をくりかえしてきただけならば,そこには新しい自然観を考えるなんのきっかけもないということになる。だが,漂着物がカミとして扱われてきたことは,自然と人間の関係を考察する上で重大なメッセージになるものと思う。つまり,人間は自然を認識しあるいは利用し,その所有権や占有について多くのしきたりや制度を生み出す過程で,カミという存在をつねに媒介項としてきたとはいえないだろうか。(中略)人間と自然のかかわりあいのなかで,カミ観念を媒介とする思考様式や自然観が多様な形で存在する。そのことによって,人間は自然の恵みと恐ろしさを享受してきたといえるのである。一方でカミが不在の自然観が,無制限な開発を是認し,環境を破壊し,資源を乱獲するという愚行を誘発した。他方,カミとともに生きてきた地元の人々の暮らしを無視してまで自然保護をすすめるという環境保護の立場が,その美名に隠れて容認されてきた。」

と論を展開する。自然環境をたんなる資源とみるのではなく(開発にせよ保護にせよ,たんなる資源と見るのは共通),それに対する「畏れ」をもつことが,資源崩壊を防ぐ可能性があるということを主張しているのである。大雑把にいえば文化による規制ということに含まれるかもしれないが,豊富な事例をもとに主張されるので説得力があった。

●税別790円,ISBN 4-09-460123-6(Amazon | honto


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