目次

書評

最終更新:2019年2月13日(水)


旧書評掲示板保存ファイル/書評:『彼女の朝』

書名出版社
彼女の朝集英社文庫
著者出版年
村山由佳2001年6月(単行書は1997年10月,集英社刊)



Aug 23 (thu), 2001, 19:56

中澤 <k1-1.humeco.m.u-tokyo.ac.jp> website

「彼女の朝」は,「おいしいコーヒーのいれ方III」という副題がついている,シリーズものの第3作である。こんな奴いねーよ,と思わせながらも,ショーリとかれんというカップルの恋愛があくまで可愛らしく,ときにはぎくしゃくと展開するうまさは絶妙である。問題は,シリーズ名にある。これまでも「風見鶏」のマスターのコーヒーが世界一うまいと書かれているわりには,具体的なコーヒーのいれ方に関する描写がなく(ハンドピックとか,挽くとか,抽出するとかしてると思うんだが),コーヒーの味についてもほとんど具体的記載がなくて,ただ「うまい」という浅さが不満だったのだが,今回の触れ方はあんまりだ。

マスターの恋人,由里子さんが登場した場面から引用しよう。


「最初は偶然,お客として来たのよ」

由里子さんは,僕が運んでいったブレンドを一口飲んだ。

「三年ほど前だったかな。そしたらなんと,奇跡みたいにおいしいコーヒーじゃない? それで,いれてる人に訊いたの。『豆はどこから仕入れてるんですか』って」

「嘘をつけ」と,マスターが口をはさんだ。「君はいきなり言ったんだ。『これよりもっとおいしい豆を仕入れる気はありませんか』ってな」

(中略)

「私ね,ついこの間まで,小さい貿易会社に勤めてたの。コーヒー豆や紅茶や,ジャムやチョコレートやお砂糖や……とにかく原料とか素材にきちんとこだわって作られた,本当にいいものだけを扱う会社。ねえ,ちょっと自慢してもいい? 今このお店に卸しているコーヒー豆も紅茶の葉も,最初は私がケニアで見つけてきたのよ」


紅茶は別に最高においしいとは書かれていないから,許せないことはない。ケニアの茶葉でも,Milima茶園みたいにTGFOPグレードのものも出しているところはあるけれども(大抵はCTCにするくらいのグレードの茶葉しかとれないと思う),たぶんどちらかといえばアッサムに近い味で,ボディが強いけれど香りは今ひとつのはず。値段が安いので,「風見鶏」が紅茶については安くミルクティーを出すという戦略をとっていると考えれば,まあありえなくはない。しかし,コーヒーについては,生産地のコーヒーの木から収穫された実から,どういう過程で喫茶店の1杯のコーヒーが出されるのかという過程を全く考えてないに違いない。そもそも「風見鶏」が自家焙煎をしているかどうかが書かれていないのでわからないのだが,貿易会社が焙煎をするとは思えないから,優れたロースターの焙煎豆を頻繁に仕入れるという戦略ではなくて,普通に生豆を仕入れる自家焙煎店なのだと仮定しよう。

ケニアは,タンザニア以上に品質が安定していて,コクがあって伸びがきき,香りも甘味も上質なものをもっている。日本ではあまり知られていないが,ヨーロッパでは一級品と見られている(田口護「プロが教えるこだわりの珈琲」,NHK出版)。しかし,煎りムラができやすく,焙煎が難しい豆として有名なのである。「もっとおいしい豆」なんて薦めても,焙煎に失敗したら全然駄目なのである。しかも,どうも風見鶏のご自慢はブレンドらしいことを考えると,ブレンドの中にケニアのフレンチローストを混ぜるとしても,それまで使っていた豆とのバランスが問題になってくる。そう簡単に変えられるはずがない。そもそも村山由佳は,ブレンドが何を意味するのか知らないのかもしれない。

この種の,中高生の間でベストセラーになるような本で,コーヒーや紅茶についての誤解や偏見が広められるとしたら,コーヒー文化にとって,実に忌むべき事態ではないか。

なんて,目くじら立てても仕方ないのだけれど。

●税別381円,ISBN 4-08-747330-9(Amazon | honto


旧書評掲示板保存ファイルトップへ